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【平家から源氏へ】渋谷一族の興亡<8>地頭請 重国の働きに頼朝配慮

話題 神奈川新聞  2018年06月05日 10:35

比留川(左)と合流する蓼川 =綾瀬市上土棚南
比留川(左)と合流する蓼川 =綾瀬市上土棚南

 源頼朝が征夷大将軍になった年の1192(建久3)年12月、渋谷庄は領家・円満院(滋賀県大津市)が直接年貢を徴収する方式から地頭の渋谷重国が年貢を代納できる「請所(請負契約となった場所)」に変更された。「吾妻鏡」は「渋谷の輩は、ひとへに勇敢を備へ、もつとも御意に相叶ふ」ためとその理由を説明する。重国に対する頼朝の配慮だった。

 「地頭請」の成立は、渋谷庄の年貢を幕府が管轄し、関東口入(口きき)請所として円満院から自立する一方、幕府の監督下に入ったことを意味する。円満院は平安後期の1040(長久元)年に園城寺長吏であった明尊によって開創された門跡寺である。

 吉田庄が円満院の荘園として成立し、重国がこの地に進出したことから渋谷庄と通称されるようになった。吉田庄が荘園としての正式な名称である。重国は吉田庄の現地管理者である下司職(げししき)を獲得、領主としての確たる場を築いていた。

 県立綾瀬西高校(綾瀬市早川)の建設に伴う発掘調査で発見された宮久保遺跡から藤原顕長の銘があるつぼが出土した。顕長は三河守を兼ねて鳥羽天皇の中宮・藤原璋子(待賢門院)に仕えていた。こうした状況を踏まえ、「綾瀬市史」は吉田庄の成立について、相模国にも多くの荘園が出現した鳥羽院政期の可能性が高いとする。

 渋谷氏は11世紀の中期ごろ、秩父を本拠としていた基家・重家の一流が南下して川崎や小机に拠点を構えた。平治の乱以前、重国に至って現在の綾瀬市域に進出したと考えられる。渋谷庄の領域を明確に示す資料はない。現在の綾瀬市を中心に藤沢市北部から大和市西南部に広がっていた。目久尻川・蓼川・比留川・引地川の流域に成立した荘園であった。

 渋谷氏関連の遺跡に海老名市の上浜田遺跡がある。遺跡を含む地域は渋谷氏が進出した地域とされる。重国の支配領域は海老名市に及んでいたとみられる。座間も渋谷氏の勢力圏との指摘がある。


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