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【平家から源氏へ】渋谷一族の興亡<7>キツネ狩り 頼朝の矢と取り換える

話題 神奈川新聞  2018年06月05日 10:33

宮久保遺跡に立つ県立綾瀬西高校。手前は目久尻川
宮久保遺跡に立つ県立綾瀬西高校。手前は目久尻川

 源頼朝は1189(文治5)年7月、藤原泰衡を討つため奥州へ出陣した。藤原氏を滅亡させた頼朝は同年10月24日、鎌倉に戻った。つかの間の静寂が鎌倉に訪れた。

 その年の11月17日、頼朝は鷹場(たかば)を巡るため大庭(藤沢市大庭)へ出掛けた。大庭は鎌倉権五郎景政(景正)が領地を伊勢神宮に寄進、名目上は伊勢神宮を領主と仰いで大庭御厨としその保護のもとで領地経営を行った場所だった。周辺に鷹狩りを行う鷹場があった。

 興を催した頼朝は渋谷庄まで足を延ばした。周囲が暗くなってから1匹のキツネが頼朝の馬の前に飛び出してきた。数十騎が左右から挟み撃ちにすると頼朝が矢を放った。頼朝の矢は当たらなかった。

 同時に放った千葉胤信の郎従で弓の名手・篠山丹三の矢がキツネの腰を射止めた。「当たった!」。頼朝は自分の矢が外れたことを知りながら声を発した。その瞬間、篠山は馬から下りて、頼朝の矢を自分の矢と取り換えてキツネに立てた。それを頼朝の前に持参した。

 頼朝は渋谷重国の館に入った。酒宴が催された。「経営美を盡(つく)す(ぜいを尽くして接待した)」。頼朝は1泊して翌日鎌倉へ戻った。重国から馬1頭と鷲羽、桑製の脇息(きょうそく)が贈られた。

 中世の武士階級の館があったとみられる宮久保遺跡(現在の県立綾瀬西高校)の北側に隣接する丸山遺跡一帯には領主の館や直営田を意味する「土合(どえ)」や「佃(つくだ)」の地名が残っていることから、この辺りに渋谷一族の居館があったと推定される。

 奥州合戦が一段落した1190(建久元)年10月3日、頼朝は初めての上洛のために鎌倉を出発した。11月7日に入京した。後白河法皇はひそかに牛車から行列を見物した。見物の車が賀茂川の河原に並び立った。申の刻(午後4時ごろ)に先陣が都に入った。

 3番隊に渋谷弥五郎がいた。弥五郎がどういう人物なのか不明。渋谷氏の一族であることは間違いなさそうだ。41番に重国の娘と佐々木秀義の間に生まれた義清がいた。兄・盛綱の名が46番にある。本流の重国や高重の名は一行に見当たらない。鎌倉での留守番役だったと思われる。


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