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【横浜大空襲73年】平和つなぐ(4)桜の木に込めた思い

社会 神奈川新聞  2018年06月02日 12:04

桜の木に込めた思いを語る小林さん(左)と谷口さん=横浜市中区の大岡川桜桟橋
桜の木に込めた思いを語る小林さん(左)と谷口さん=横浜市中区の大岡川桜桟橋

 横浜中心部を流れ、桜の名所として知られる大岡川。川沿いに連なる約500本もの桜は1960年代に植えられた。桜の木の下には、横浜大空襲などの“昭和の記憶”がひっそりと埋まっている。

 横浜市中区初音町にあった豆菓子店「谷口商店」の店主だった谷口安利さん(76)が幼い頃、大岡川沿いには桜ではなく、柳並木が続いていた。「柳は枝の揺れる姿が人を招く。そんな商家の風習からでしょう」。柳の木は太田橋そばに今も残されている。

 大岡川は横浜開港期から運河として盛んに使われた。石材や木材などの建築資材をはじめ、石炭や食料品など多彩な貨物は艀(はしけ)で運ばれた。黄金町から日ノ出町にかけて、舟運を利用する問屋が軒を並べた。

 45年5月29日、横浜大空襲が大岡川によって育まれた街を一変させた。

 現在の京急線黄金町駅の周囲に猛火が迫る中、当時16歳だった河原康さん(89)=同市港南区=は川沿いを逃げ惑う大勢の人の中から、おばといとこの姿を見付けた。

 紅蓮(ぐれん)の炎が2人に迫る。「やっちゃん、助けて」。おばが叫んだ。父親と離ればなれとなっていた河原さんは両手にやけどを負い、自身が逃げるので精いっぱいだった。単身逃げ延び、たどり着いた西区霞ケ丘の路上で失神した。のどの渇きで意識を戻したが、父親と2人の親戚は亡くなっていた。「あの時、何かできたのでは」と今も悔やむ。

 駅舎周辺では600人以上が命を落としたとも言われ、市内で最も犠牲者が多い一角となった。大岡川沿いには行く手をさえぎられた多数の焼死体が横たわり、火炎の熱さに絶えかねて川に飛び込んだとみられる水死体が浮かんだ。遺体は付近に掘られた巨大な穴に埋められたという。

 河原さんや、当時4歳で市立東小学校の裏山に逃げて助かった谷口さんは黄金町周辺で遺体を見た記憶がない。自宅が焼け、親族を失った衝撃があまりに大きかったためだった。

 野毛生まれで日ノ出町の小林紙工会長の小林光政さん(86)は岐阜にある母親の実家で横浜大空襲を知った。2日後、父親とともに戻ると、野毛をはじめ周辺は一面の焼け野原。その姿にがくぜんとした。

 小林さんによると、戦前の野毛や日ノ出町の川沿いにはフェンスがなく、荷揚げ場として重宝されていた。戦後しばらくは運河として使われたが、高度経済成長期になると、その役割を終えた。60年代に護岸がかさ上げされ、同時に桜を植えることになった。小林さんは「豊かになり、人々に桜を愛(め)でる余裕が生まれた」と振り返る。

 空襲時、艀や船に逃れようとした人たちの遺体が折り重なった。そう伝えられる桟橋はコンクリートで覆われた。戦後、川にせり出すように建てられたバラック小屋は取り壊されてがれきとなり、かさ上げにも使われた。その上に桜を植えたが、土壌が浅くて十分に根を張らず、次第に木が弱ってしまった。徐々に土壌改良や植え替えを進めたが、根が歩道の舗装を盛り上げるトラブルは今も続く。

 92年春から恒例の「大岡川桜まつり」が始まった。小林さんと谷口さんは地元住民の代表として、新たな地域活性化の拠点「川の駅 大岡川桜桟橋」の設置に尽力した。

 「街は生き物。街が成長するには栄養や知識を取り込まなければならない」が小林さんの持論。春になると淡いピンク色に染まる桜並木。その下には、横浜大空襲から立ち上がった地元住民の思いが詰まっている。


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