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【平家から源氏へ】渋谷一族の興亡<6>壇ノ浦の合戦 真っ先に豊後国に渡る

話題 神奈川新聞  2018年05月22日 21:37

壇ノ浦古戦場=山口県下関市(下関市提供)
壇ノ浦古戦場=山口県下関市(下関市提供)

 源範頼が1185(元暦2)年1月26日、渋谷重国・高重父子、北条義時、千葉常胤、下河辺行平、三浦義澄・義村父子、和田義盛らとともに豊後国(大分県)へ向かった。範頼の命令で、義澄は京都への連絡の要衝・周防国(山口県)に陣を構えることになった。

 2月1日、範頼が豊後国に渡った。義時、行平、重国らが最初に上陸した。葦屋浦(福岡県)で平家の有力家人の原田種直と息子の種益らが隋兵を率いて戦いを挑んできた。行平や重国らは駆け巡って射た。種直らは攻戦したが、重国に射られた。行平は、種直の弟・敦種を討ち取った。3月1日の夜、重国の飛脚が鎌倉に到着。範頼が周防国から豊後国に渡った時、最前に渡海して種直を討ったことを報告した。

 2月の屋島の合戦に勝利した源義経は3月22日、数十艘の船を率いて壇ノ浦を目指して船出した。前日には、周防国の船所を管理する五郎正利が数十艘の船を献上してきた。源氏軍の兵船が整い、平家の滅亡の日は近づきつつあった。

 源平両軍は3月24日、壇ノ浦の海上で遭遇。平家軍は500余艘、源氏軍は840余艘だった。平家軍は三手に分かれて源氏軍と戦った。午の刻(正午ごろ)になって「平氏つひに敗傾(はいけい)す」。平時子(平清盛の妻)は宝剣を持ち、按察局(あぜちのつぼね)は安徳天皇を抱いて海底に没した。天皇は8歳だった。平徳子(清盛の娘・建礼門院)は入水したものの、渡部党の源五馬允によって熊手で引き上げられた。按察局も生き残った。安徳天皇はついに助からなかった。後鳥羽天皇の兄の若宮(守貞王)は無事だった。

 この海戦で時子、教盛、知盛、経盛、資盛、有盛、行盛らが海底に沈んだ。平宗盛・清宗父子、時忠、信基、時実らは捕虜となった。三種の神器のうち内侍所(ないしどころ)(鏡)、神璽(しんじ)は無事だったとはいえ、宝剣が失われた。

 「吾妻鏡」には、壇ノ浦の合戦での重国の活躍ぶりを示す記録はない。範頼に従って真っ先に豊後国に渡ったことを考えると、相応の役割を果たしたことは間違いないと思われる。



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