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【平家から源氏へ】渋谷一族の興亡<5>木曽義仲滅亡 200余騎率い重国ら奮戦

話題 神奈川新聞  2018年05月22日 21:36

渋谷氏の鎮守・五社神社(綾瀬市早川)
渋谷氏の鎮守・五社神社(綾瀬市早川)

 源頼朝に続いて挙兵した木曽義仲は1183(寿永2)年5月、倶利伽羅峠で平家軍を破ると7月28日に京都に入った。直前、平家は天皇、神器を奉じて京都を離れた。「都落ち」である。後白河法皇は平家追討の院宣を下した。平家は一夜にして賊徒となった。

 京都に入った義仲の軍勢は前年来の凶作と戦乱で兵糧にも苦しみ、法皇や貴族、寺社勢力との関係も冷却の一方だった。義仲は11月、法皇の御所・法住寺殿を襲い、法皇を幽閉、院の近臣を解官した。「憑(たの)ムトコロハタダ頼朝ノ上洛」。九条兼実は「玉葉」でこう書く。

 1184(寿永3)年1月10日、義仲は征夷大将軍となった。10日後の1月20日、頼朝の命令を受けた源範頼、義経の軍勢が義仲追討のため勢多と宇治から進撃した。「源平闘諍(とうじょう)録」によると渋谷重国は子の重助や佐々木高綱らとともに義経の軍勢に加わっていた。

 義仲、源義広、今井兼平らは防戦したが「皆もつて敗北」した。「延慶本平家物語」によると、六条河原の合戦で重国が率いた軍勢は200余騎。当時としては大軍である。「重国カ隋兵ヲシカコミテヒマヲ諍ヒツメヨセテヲリカケ〳〵戦フ」。同書は、重国の配下の兵が繰り返し寄せて戦った模様をこう描く。

 入京した範頼と義経は河越重頼、佐々木高綱、畠山重忠、重国、梶原景季らを率いて後白河法皇の御所を警護、一条忠頼らが義仲の軍勢と戦った。義仲は追撃を受けて、近江国粟津付近(滋賀県大津市)で、相模の石田次郎に討たれた。31歳の栄光と挫折だった。

 小山朝政、土肥実平、重国をはじめ主だった御家人の使者が28日に鎌倉に到着して義仲との合戦が無事に終わったことを報告した。2月2日、宇治川の合戦で捕虜となった樋口兼光が梟首(きょうしゅ)された。重国がこの命を受けて、郎従の平太に斬首の役を命じた。斬り損じたため、息子の高重が兼光を斬った。


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