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【平家から源氏へ】渋谷一族の興亡<4>御家人に登用 渋谷下郷の年貢を免除

話題 神奈川新聞  2018年05月22日 21:35

引地川沿いにある渋谷一族の築城跡とも伝わる天満宮の林(右奥)=藤沢市長後
引地川沿いにある渋谷一族の築城跡とも伝わる天満宮の林(右奥)=藤沢市長後

 源頼朝は1180(治承4)年10月6日、東国武士団を糾合して鎌倉に入った。挙兵時は平家方だった畠山重忠が先陣だった。衣笠城の三浦一族を攻めた重忠や河越重頼、江戸重長は2日前の4日、長井の渡で頼朝の軍勢に加わった。

 重国もこの時期に源氏方に転じたとみられる。「源平闘諍録」によると、重国は糟屋盛久、海老名季貞、本間五郎らとともに頼朝に降伏したとされる。頼朝は鎌倉に幕府樹立の拠点を築いたとはいえ、富士川の合戦、常陸国(茨城県)の佐竹秀義討伐と目まぐるしい日々を送った。12月には、囚人となっていた佐々木義清の身柄が兄の盛綱に預けられた。寛大な措置である。

 重国の次男・高重は1181(養和元)年8月27日、頼朝から「無貮(むに)の忠節を竭(つく)すの上、心操(こころばせ)の穏便を感ぜしめたまふによつて」知行している渋谷下郷(藤沢市長後付近)の年貢を免除された。「綾瀬市史」は「渋谷氏は晴れて鎌倉幕府の御家人としての身分を獲得した」と書く。

 石橋山の合戦の際、頼朝は杉山に逃げ込んだが、後を追ってきた平家方の総大将・大庭景親が矢を射てきた。絶体絶命のピンチだった。そこへ、景親の陣にあった飯田家義が頼朝を逃れさせるために、6人の家来を景親の軍と戦わせた。頼朝は危機を脱することができた。

 渋谷氏系図のなかには、飯田五郎(重近)を重国の子供とするものがある。飯田郷(横浜市泉区)は渋谷庄の領域だったともいわれる。これらが事実であれば、重国は石橋山の合戦では平家方に立ちながら、同族に窮地に立った頼朝を助けさせたことになる。

 頼朝が重国を取り立てた理由について「吾妻鏡」は「寛宥(かんゆう)の儀(特別な許し)によって召し仕はる」と書く。「寛宥の儀」には、重国が佐々木一族を20年間庇護(ひご)したことに加え、石橋山で家義が頼朝を助けたことが考慮されたのかもしれない。 


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