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【平家から源氏へ】渋谷一族の興亡<3>石橋山の合戦 平家方のナンバー2?

話題 神奈川新聞  2018年04月24日 14:00

石橋山古戦場跡の碑=小田原市
石橋山古戦場跡の碑=小田原市

 初戦に勝利した源頼朝は300騎を率いて鎌倉へ向かったと思われるが1180(治承4)年8月23日、石橋山(小田原市)で大庭景親を総大将とした俣野景久、河村義秀、渋谷重国、曽我助信、山内経俊、長尾定景ら平家方3千余騎に行く手を阻まれた。さらに、背後の山には伊東祐親の300余騎が迫っていた。

 景親は、夜が明ければ三浦一族が頼朝方に加わるとして頼朝軍への夜襲を決行した。多勢の前に、頼朝軍の敗北は明らかだった。この合戦で岡崎義実の息子の佐奈田義忠、豊三家康らが命を落とした。頼朝は明け方、杉山に逃げ込んだ。

 景親の探索から逃れることができた頼朝は8月28日、土肥の真名鶴崎(真鶴崎)から船に乗り、安房国(千葉県)を目指した。翌日、安房国平北郡猟島(千葉県安房郡鋸南町)に着いた。先に到着していた時政らが迎えた。「数日の鬱(うつ)念一時に散開す」

 「源平盛衰記」によると、頼朝は石橋山の合戦の際、義実の申し入れもあり、義忠を先陣に指名した。義忠には郎党の文三家安が従った。平家方は景親、弟・景久、長尾為宗・定景、重国らだった。義忠は敵の景久と「上になり、下になり、跳ね返し、持ち返し」の激闘となった。「今一返しも転びなば、互に海へは入りなまし」だった。

 義忠は景久を組み伏せてその首を取ろうとしたが、先に岡部弥次郎の首を切った刀をそのままさやに収めたために血詰まりして抜くことができなかった。そこへ、景久の加勢にやってきた定景に討ち取られた。尾根を隔てて重国らと戦っていた家安も、稲毛重成の郎党に討たれた。

 重国は、「吾妻鏡」「延慶本平家物語」では景親に従う軍勢の一人だが、「四部合戦状本平家物語」には「大庭三郎景親・渋谷庄司重国以下、平家に志(こころざし)有る輩(ともがら)三千余騎にて、石橋の館へ押し寄せて之を迫(せ)む」とあり、平家方のナンバー2として描かれる。

=次回は5月8日掲載


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