1. ホーム
  2. 話題
  3. 【平家から源氏へ】渋谷一族の興亡<2>源平合戦最初の矢 次男佐々木経高が射る

【平家から源氏へ】渋谷一族の興亡<2>源平合戦最初の矢 次男佐々木経高が射る

話題 神奈川新聞  2018年04月18日 16:10

源頼朝が配流された蛭ケ小島に立つ碑(静岡県伊豆の国市)
源頼朝が配流された蛭ケ小島に立つ碑(静岡県伊豆の国市)

 平治の乱で平家の捕虜となり伊豆・蛭ケ小島に流されていた源頼朝のもとに1180(治承4)年4月27日、後白河法皇の第二皇子・以仁(もちひと)王の平家打倒を呼び掛ける令旨(りょうじ)(命令書)が届いた。叔父・源行家が持参した。

 頼朝は水干(すいかん)姿に改めると、男山方面に向かって遥拝したあと、令旨を開いた。頼朝が、平家討滅を決意した瞬間である。男山は京都の西南にある山で、源氏の氏神・石清水八幡宮(京都府八幡市)があった。

 頼朝は三島社(三島大社)の祭礼の日の8月17日未明に平家の目代(代官)・山木兼隆を襲撃する予定だった。前日の16日に駆け付ける約束だった佐々木兄弟が未到着だったために作戦を引き伸ばさざるを得なかった。頼朝が、兄弟の戦力をいかに頼りにしていたかがわかる。

 兄弟はこの日の未(ひつじ)の刻(午後2時ごろ)にやってきた。長男・定綱と次男・経高は疲馬(ひば)に乗り、3男・盛綱と4男・高綱は徒歩だった。定綱らは、悪天候による洪水のために到着が遅れたことを陳謝した。ただちに作戦は実施に移された。

 一行が肥田原(静岡県田方郡)に到着すると北条時政が定綱に、兄弟は山木館の北方にいる兼隆の後見の堤信遠を襲撃するようにと命令。信遠の館に着いた兄弟のうち定綱と高綱は後方に回った。経高が前庭に進んで矢を放った。「これ源家、平氏を征する最前の一の箭(や)なり」。源平合戦の始まりだった。信遠は間もなく、兄弟に討ち取られた。

 本隊の時政も兼隆への攻撃を開始した。佐々木兄弟は信遠を討った後、時政の軍勢に加わった。頼朝は時政らの出陣に際して合戦の際はまず火を放つようにと命じた。煙が確認できないため、留守番役だった加藤景廉、盛綱、堀親家を応援に派遣した。3人は走って山木館へ向かった。盛綱と景廉は館に討ち入り兼隆の首を取った。兼隆の郎従は戦死した。頼朝は、初戦を勝利で飾ることができた。


シェアする