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【平家から源氏へ】渋谷一族の興亡<1>平治の乱 佐々木一族を20年庇護

話題 神奈川新聞  2018年04月10日 12:46

渋谷一族ゆかりの早川城があったと伝わる森。現在は綾瀬市の城山公園として整備されている(綾瀬市早川)
渋谷一族ゆかりの早川城があったと伝わる森。現在は綾瀬市の城山公園として整備されている(綾瀬市早川)

 伊豆・蛭ケ小島に流されていた源頼朝のもとに1180(治承4)年4月27日、以仁(もちひと)王の平家打倒を呼びかける令旨(りょうじ)(命令書)が届いた。頼朝が平家打倒を決意した瞬間である。3カ月余り後の8月、頼朝は挙兵した。現在の綾瀬市を中心とする渋谷庄(吉田庄)に本拠があった渋谷重国は平家方として頼朝を攻撃する側にあった。一方、重国が20年間にわたって庇護(ひご)した佐々木秀義の息子の4兄弟は頼朝のもとに駆け付けた。こうした経緯もあってか、頼朝が鎌倉に入った後も一族は処罰されることなく、御家人として処遇され、源平合戦や奥州合戦で活躍、鎌倉幕府樹立に貢献した。綾瀬市内には、一族ゆかりの史跡が点在する。その興亡の歴史をたどる。

 後白河院政のもとで権勢を誇っていた藤原通憲(信西)と平清盛の打倒を目指した藤原信頼は源頼朝の父・義朝を誘って1159(平治元)年12月9日、清盛が熊野詣でに出掛けた留守を狙ってクーデターを起こした。このクーデターは成功したかにみえたが、変事の報で引き返した清盛によって鎮圧された。その結果、平家全盛時代が到来した。

 戦いに敗れた義朝は尾張国(愛知県)の長田(おさだ)忠致(ただむね)を頼った。ところが忠致の裏切りに遭い、郎従の鎌田政家(正清)とともに殺された。三男の頼朝は降雪のため一行からはぐれ、翌年2月、平家方に捕らえられた。

 本来ならば処刑されるところを、清盛の継母・池ノ(いけの)禅尼(ぜんに)の嘆願で命を助けられ3月、伊豆・蛭ケ小島に流された。14歳だった。以来20年間の流人生活を送った。そこで北条政子と結婚した。

 平治の乱の折、近江国(滋賀県)の佐々木秀義は義朝陣営の有力武士だった。「佐々木源三秀義は、敵二騎切ておとし、我身も手負ければ、近江をさして落にけり」。「平治物語」は秀義の奮戦ぶりをこう描く。

 「吾妻鏡」によると、秀義は所領の佐々木庄(滋賀県近江八幡市安土町付近)を失ったために母方の縁者の藤原秀衡を頼って定綱、経高、盛綱、高綱の4人の子どもを伴って奥州へ赴く途中、「秀義の勇敢に感ずるの余りに」相模国渋谷庄の渋谷重国に引き止められた。以後、20年にわたって重国の庇護を受けた。

 この間、定綱と盛綱の兄弟は頼朝に仕えるようになっていた。秀義と重国の娘の間には義清が生まれた。「延慶本平家物語」には「二郎(経高)ハ渋谷庄司カ聟」ともある。渋谷一族と佐々木氏は、平治の乱以前から親密な関係だったといわれる。

 渋谷庄は現在の綾瀬市を中心に藤沢市北部、大和市南部、横浜市の一部(泉区)に広がっていたとみられる。海老名市や座間市にも領域が及んでいたとされる。

浅田勁(あさだ・つよし) 元神奈川新聞記者。1944(昭和19)年5月、神奈川県・綾瀬生まれ。著書に「海軍料亭 小松物語」(かなしん出版)、「幕末動乱」(神奈川新聞社)、「鎌倉千年の歩み 段葛からのオマージュ」(歴史探訪社)、「三浦一族と相模武士」(斎藤悦史氏との共著、神奈川新聞社)。源頼朝の鎌倉幕府樹立から近世までをたどった「鎌倉新聞」(神奈川新聞社)を執筆。


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