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葉山在住 福島富子さん
長崎被爆者、着物とともに語る

社会 神奈川新聞  2018年03月14日 09:43

着物姿で自らの体験を語る福島富子さん
着物姿で自らの体験を語る福島富子さん

 崩した書体で縫い込まれた「和」の文字。その帯を締めた着物姿で、福島富子さん(73)=葉山町下山口=はノルウェー・オスロにいた。

 昨年12月、非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のノーベル平和賞授賞式を、現地のパブリックビューイングで見守った。カナダ在住の被爆者サーロー節子さんの演説を聞きながら、亡くなった先輩たちの喜ぶ顔が浮かんだ。「見せてあげたかったな」

 県原爆被災者の会葉山支部会長を務める福島さん。被爆者であるが故の数奇な人生を、大好きな着物とともに歩んできた。だが長い間、「被爆」はどこか「ひとごと」だった。


生後7カ月 長崎で被爆


 爆心地から2・5キロほどの長崎市平戸小屋町で父と母、3歳上の兄と暮らしていた。その日、生後7カ月の福島さんは居間で寝息を立てていた。がーんという爆音とともに天井が崩れ落ちたが、幸運にも蚊帳に守られ、助けられた。家族も皆無事だった。

 当時のことは兄から聞いただけでもちろん覚えていない。福島さんの最初の記憶は4歳ごろ。あるつらい日のことだ。

 長崎・五島列島の小値賀(おぢか)島にある伯母中原タミさんの家を父と兄とで訪ねた。気付くと誰もいなくなってひとりぼっちになった。兄は「どうして富子だけ置いてくんだ」と泣き叫んだという。

 預けられた理由を両親から直接聞くことはなかった。「生活苦と、女の子だから被爆を隠すためかな」。そう想像するしかない。

 タミさんの家は酒屋を営み、お金に困ることはなかった。女性が多く、皆にかわいがられた。中でもタミさんの次女淀(よどみ)さんを「ようこ姉ちゃん」と慕った。

 夜なべ仕事でタミさんたちが和裁をする横で、見よう見まねで人形の着物を縫った。着物と裁縫は生活の一部だった。実の母親も裁縫が好きで、「針を持つことは血筋みたい」と笑う。

 10歳ごろ、淀さんとともに一度だけ実母に会いに行ったことがある。号泣する母を前に、「この人誰?」「なんで泣いてるの?」ときょとんとしていた。



 就職と同時に実家へ戻ったが、直後に父が亡くなった。4歳で別れたきり「ほとんど知らないおじさん」。涙は出なかった。その後の母との暮らしも、ぎこちなかった。

 被爆者であることを思い悩むようになったのも同じころ。ボーイフレンドができた友人たちを横目に、「髪が抜けたらどうしよう。結婚できるだろうか」。仲良くなった男性に被爆者だとなかなか言えず、原爆を扱う本や映画を遠ざけ、目を背けた。

 そんなとき久しぶりに連絡をくれたのが、高校時代からの友人だった福島哲市さん(73)。哲市さんは「身内に被爆のことは一切伝えなくていい」と言ってくれ、結婚が決まった。家財道具は淀さんがそろえてくれた。福島さんにとってようやく「自分の家」と思える場所ができた。

 結婚後に横浜、葉山と移り住み、被爆者手帳を取ったのは34歳の時。「軽い気持ちで」県原爆被災者の会葉山支部に入った。

 熱心に活動する20歳以上年上の先輩たちからすれば、「娘っ子」のような立場。「記憶のない私に語る資格はない。被爆者だけど被爆者じゃないような、どこかひとごと」で、気が引けていた。

 一方で大好きな着物にのめり込み、着付けと和裁を本格的に習い始めた。長女の成人式は自ら縫った振り袖を着せた。そのうちに人が集まり、着付け教室を始めるまでになった。



 被爆を「自分のこと」と捉えるきっかけは2012年8月。長崎の平和祈念式典で被爆者代表として献花した時だった。東京電力福島第1原発事故の翌年で、福島からの参加者に注目が集まっているのを目の当たりにした。

 戦後60年以上たち、また別の形で起きた「ヒバク」。原爆と原発事故の被害がつながっているように感じた。事故後も国は原発を稼働し続けようとしている。

 伝えていかなきゃ-。使命感のようなものが芽生えた。自分のことは語れないけれど、被爆者の手記や自伝を読み聞かせようと朗読を勉強した。被爆者の思いに心を寄せると、戦争と原爆の恐ろしさを改めて実感した。

 15年には県の代表として、核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開かれる米国ニューヨークを訪れることに。そこでも朗読をと思っていたが、先輩から「つらい思いをしたでしょ。自分のことを話しなさい」と勧められた。

 半生を振り返り、初めて文章にした。離れて暮らした実の両親には愛情を感じられなかった。被爆がなければまったく別の人生だったはず。だけど親同然のようこ姉ちゃんと大好きな着物と出会い、「ただただ必死に生きてきた」。

 ニューヨークでは、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員で反核運動をけん引し、昨年亡くなった谷口稜曄さんも一緒だった。寡黙な谷口さんが「君の家は僕の家のそばだよ」と声を掛けてくれた。ちゃんと語っていくんだよ、と導いてくれているような気がした。


「和」の文字を縫い込んだ帯
「和」の文字を縫い込んだ帯

 いまは年に数回、地元の中学校や海外で自らの半生を語り、必ず着物を身に着ける。オスロで締めた「和」の帯は原発事故後、なじみの呉服店に誘われて被災地に心を寄せてつくったもの。自らが体験を語り、平和の願いを届けるときの“パートナー”になった。

 伝えたいのは、戦争や原爆で生きたくても生きられない人が大勢いたこと。生き残っても離れ離れになった家族がいたこと。「命を粗末にしないで。そしてわが子は絶対に手放しちゃだめ」

 そのメッセージに着物が力を与えてくれる。「それが私にできる唯一のこと」


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