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「明日」を運び80年 川崎鶴見臨港バス物語(中)常に人員不足と戦い

社会 神奈川新聞  2017年11月19日 10:24

朝鮮戦争特需で活況となり輸送力強化で導入されたトレーラーバス(川崎鶴見臨港バス提供)
朝鮮戦争特需で活況となり輸送力強化で導入されたトレーラーバス(川崎鶴見臨港バス提供)

 「石油ショック(1973年)こそ、当社にとってはまさに救いの『神風』というべきものであった」。川崎鶴見臨港バスの社史「臨港バス50年のあゆみ」に記されていた言葉だ。「高度成長がそのまま続いていたならば、労務倒産に追い込まれていた」と。

 創業時から京浜工業地帯の従業員の輸送を担ってきた同社。恵まれた地域環境に見えるのだが、「戦前、戦中、戦後と臨港バスの歴史は、ずっと労働力不足との戦いの歴史だった」と田中伸介社長は明かす。

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 工場への通勤客の輸送は、朝夕のラッシュ時に輸送が集中し、それに対応するための人員と車両を用意しなければならない。しかし、昼間の需要は激減し、車両や人員が浮く。そこで生まれたのが、「中休勤務」という特殊な勤務シフト。朝のラッシュ時に4時間働き、6時間空けて、夕方のラッシュ時間帯に4時間勤務する。全国的にも珍しいシフトは創業期には始まっていた。

 通勤客が多いと、運賃が割引となる定期券利用率が高くなる。高度経済成長期の62年、全国平均の31・5%に対し51・8%と5割を超えていた。「1日1車当たりの走行キロ数、平均稼ぎ高ともにハンディを負った」とも記す。当時は、公共料金の抑制政策もあり「61年から4年間は暗黒期だった」とも。

 特に深刻だったのは、車掌不足だった。戦前から女性の人気職種だったが、1960年ごろから、成長産業に求職が移った。京浜臨海部では特に顕著だったという。解決策として64年5月に導入したのがワンマンカーだ。10年以上かけ、77年2月に完全移行。63年9月に618人(うち女性488人)いた車掌は姿を消した。

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 戦中は、運転士の応召者が多くなり、地方募集や農閑期の季節労働を求めたほか、女性運転士も登場。44年ごろには刑務所から数十人を借り、修理工場で働いてもらったとも。

 戦後も50年に始まった朝鮮戦争の特需により工業地帯に活気が戻ると、ラッシュ時間帯の混雑が激化し、トレーラーバス2台を導入。通常のバスの2~5割増しの輸送にするなど、時代のニーズに応えてきた。

 現代は求人難と渋滞が課題だ。「公共交通機関として基になるのはダイヤ。この維持が大切」(坂野正典常務)と、渋滞にはまり、折り返しの便などが間に合わないと、別のバスを投入する。「到着が遅れると怒鳴られることもあるが、その時はひたすら謝るしかない」と運転士だった人事課主任の茂手木昇さん(59)。

 だが、つらいことばかりでもないという。「サンドイッチのお弁当を作ってくれたり、お菓子をもらったりしたこともある」。沿線の高校の文化祭にバンド出演して交流も広げた。

 「地域に必要な会社として、創意と工夫、進取の気概で応えてきた。DNA(遺伝子)のようなものがあるのでしょうか」と田中社長。信頼と愛着にもつながっているようだ。


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