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序列をこえた社会に向けて
やまゆり園事件 最首悟さんの手紙⑰

社会 神奈川新聞  2019年11月18日 09:49

(報道部より) 10月14日の日付で、最首さんの元に植松被告から返信が届いた。中身はたった10行。手紙には〈最首さんのお考えは判りましたが、奥様はどのように考えているのでしょう。聞く必要もありませんが、今も大変な面倒を押しつけられていると考えております。「朱に交われば赤くなる」と云いますから、障害児の家族が悪いのではなく、生活する環境が悪いということです〉(原文まま)などと書かれていた。

障害ある娘と暮らす社会学者 植松被告との文通伝えたい 「心失者なんて、いない」


 障害者ら45人が殺傷された相模原障害者施設殺傷事件(やまゆり園事件)。和光大学名誉教授(社会学)の最首悟さん=横浜市旭区=が植松聖被告からの手紙を受けて、返信をつづっています。重度の知的障害がある娘を持つ父親から、被告の背後にある障害者への差別や偏見が根強く残る社会に向けたメッセージです。

最首悟さんの手紙 「序列をこえた社会に向けて」

2019年11月13日 最首 悟

手紙をもらって 

 10月15日手紙をもらいました。話の趣旨はわかった、ということと、つづいて、娘の星子を世話している母親のことについて、言及がありました。その部分を抜き書きします。

「奥様はどのように考えているのでしょう。聞く必要もありませんが、今も大変な面倒を押しつけていると考えております」。

 大変な面倒を押し付けている、とは、第一に、母親と父親と子どもの三人暮らしで、手間のかかる子どもの世話を父親は母親にみんな押しつけている、というふうに読めます。第二には、すこし広げて、手間のかかる子ども、一つには障害のある子どもが挙げられますが、そのような子どもの世話は社会的に行われるべきだが、いま日本の社会は十分にそのようにはなっておらず、親に、特に母親に、ほとんどの世話を押しつけている、というふうに読めます。

 後者は今、子どもから大人まで重圧を感じ、身に染みる自己責任との関連という問題につながります。自己責任だからね、と念を押されると、萎縮したり、大げさに言うと、金縛りになったような状態に陥る、あるいは孤立無援状態になって、人や社会に助けを求められない苦しみになります。家庭でも職場でも、その空気が重くよどんでいます。そうではなく、安心して、何かやる、人を助けたりする、という状態を考えてみます。

 誰かが、やってみろ、と言う。それは口に出していうわけではないのです。もちろん、口に出して言う場合もありましょうが、気配、雰囲気として、それを感じ取って、安心という思いを持つことが大事なのです。生きていく、あるいは、成長するには、自分は、どこか、守られているという安心感が不可欠です。大丈夫、請け合うからやってみろ、という促しが、どこかある。その発信元は、まず、第一に、母です。

 ただ、母的なもの、母性の元型は誰にでもあると考えられます。しかし、母が無意識に発散する安心の素は、ほかの者、特に男にとっては、意識してそういう思いを持つ必要があります。保母さん、保夫さん、看護婦さん、看護夫さん、介護職員、先輩、先生、上司、上役、そういう役柄で慕われる人は、みんなそれぞれ、安心の素を分泌していると思われます。ただ、そうなるには、やはり、共に生きる場という意味を含んだ、人間という人は、頼り頼られるはひとつのこと、ということを噛みしめて、まず人に頼らねばなりません。そのことを意識することが大事です。自分は独立している、人の世話にはならない、というのでは、大丈夫、という安心を発散させることはできないのです。

 子どもプレイパークの案内に、「ここでは子どもたちは自己責任で自由に遊べます」というのがありました。これでは子どもたちは思い切って遊べません。一億総活躍という標語がありますが、自己責任というという重しがそれを打ち消しています。でも、考えてみると、自己責任は個人というあり方にとって、当たり前のことなのです。するとやはり、わたしたちは個人ではないのです。個人になりたい、個人にならねばならない、という思いも切実です。でもなかなかなれません。無理になろうとするとおかしくなってしまいます。

 第一の、母親が背負いきれない苦労を押しつけられているのではないか、という問題に入ります。わが家では、子どもの身からの呼び方の、お母さん、お父さんを、夫婦のたがいの呼び方としています。ほかの呼び方がどうしてもしっくりないのです。「あなた」はお互いに使うことがありますが、すこし距離を置いた言い方で、「あんた」となると逆に狭すぎる感じです。

 それで、お母さんの苦労ですが、そのことを思うと、どうしても、専業主婦の矜持ということを思わざるを得ません。もちろんそこに、お母さんという役割は大きく含まれているのですが、ここは私の持ち分、専管領域、むやみに干渉するな、という意識です。その領域の中に、父親がなすべきこと、というのも当然入っているのです。第一はお金を稼いでくることです。

 わが家は、大もとのところで、専業主婦が取り仕切っています。その表れのひとつが、お願いします、と声をかけられたら、待ったなしは大げさですが、文句なく父親が応じることです。手が離せないとか文章を書いているから、というような言い訳は一切許されません。何を頼まれるかは、母親の体力の減退もありますし、父親の器用貧乏度にもよりますが、基本は専業主婦の裁量です。その裁量の中に、けっして頼まない、口出しさせない、ということが含まれています。

 専業主婦の矜持が崩れる、あるいは崩すと、家庭は不安定になり、社会はぎすぎすしてきます。専業主婦は寄生虫、とは80年代に言い出されたことです。わが家は概して平穏です。そうでないと娘星子の様子がおかしくなります。


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