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神奈川新聞と戦争
(113)1941年 揺るがぬ出版、薬品

神奈川新聞と戦争 神奈川新聞  2019年11月10日 05:00

「ブルトーゼ」「ミツワ肝油ドロップス」「ザオキン」など薬品の広告が並んだ =1941年8月12日の神奈川県新聞
「ブルトーゼ」「ミツワ肝油ドロップス」「ザオキン」など薬品の広告が並んだ =1941年8月12日の神奈川県新聞

 1937年の日中戦争勃発から41年の日米開戦までの間、新聞広告のスペースは年々圧縮された。内川芳美編「日本広告発達史(上)」(76年)によると、行数ベースの広告量は38、39年こそ漸減にとどまったものの、40年に前年比18%減、41年には同21%減と激減に次ぐ激減となった。

 その理由は第一に、新聞用紙が制限されたことだが、同書は他の理由も挙げる。「新聞広告商品は、本来、自由市場において需要を創出する競争商品であるにもかかわらず、戦時統制経済の進展によって市場条件が変化した」。つまり、あらゆる商品が政府の統制下に入ったため、企業にとって広告を出す意味がなくなったのである。

 こうした中でなお、出版広告の存在感は揺るがなかった。全体の分量が減ったとはいえ、主要広告の総行数に占める割合は36年から41年まで約1割をキープ。前回説明したように、社会情勢に対する関心と、娯楽や知識への欲求が依然高かったことを示している。

 「日中戦争後の最初の大ベストセラー」「発売即日数万部を売りつくし、増刷に次ぐ増刷という嵐のような反響を呼んで、ついに100万部を越したといわれる」(同書)とは、38年刊行の火野葦平著「麦と兵隊」のこと。これら戦記文学をはじめ記録文学や、ヒトラー著「わが闘争」、小林一三著「事変はどう片づくか」のような時局ものもよく読まれたという。

 同様に、健康管理が「国策」となった戦時下にあっては、薬品の広告も存在感を失わなかった。

 例えば41年8月12日の神奈川県新聞(本紙の前身)の1面を見る。「補血強壮」をうたった藤沢友吉商店(後の藤沢薬品工業)の「ブルトーゼ」。夏の強い日差しの絵をあしらい「鍛へよ肉体」と呼び掛けたミツワ石鹸(せっけん)本舗薬品部の「ミツワ肝油ドロップス」。急性、慢性の淋疾(りんしつ)(性感染症)に効くとしたアルス薬品部の「ザオキン」。

 これらの広告が、これまで本欄で取り上げてきた寿屋(後のサントリー)の広告と並んで掲載された。


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