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神奈川新聞と戦争
(110)1941年 ソ連に学んだ広告観

神奈川新聞と戦争 神奈川新聞  2019年10月20日 11:39

「お料理の設計」と題し計画的な消費を説いた寿屋の広告=1941年8月12日付神奈川県新聞
「お料理の設計」と題し計画的な消費を説いた寿屋の広告=1941年8月12日付神奈川県新聞

 広告業界は日中戦争前の1935年の時点で、広告による思想、文化、教育の統制を企図していた。国家総動員法の制定は38年、それに基づく「献納広告」が盛んになるのが40年。制度化に先行して、広告業界が自主的に戦争協力にくみしていた事実は重要だ。

 39年夏に開催された電通主催の広告講習会で、経営学者の村本福松は「広告観」の転換を説いた。

 いわく、自由競争から統制経済に移行した戦時下にあっては、軍需品も民需品も生産から配給までが計画的に行われ「広告というものが入り込んで、その生産を増大するとか、あるいは配給を増大するということはほとんど余地がない」(中瀬寿一著「日本広告産業発達史研究」)。

 では広告が不要になるかといえば、そうではない。村本は共産主義体制のソ連を例に、新たな広告観を提起したのだ。

 「広告は形をかえてソ連においては使われております(略)物資の生産消費に関連した教育的な意味をもった広告というものが用いられると思うのであります」(同)

 つまり、村本の主張した新しい広告の役割とは、共産主義さながらの戦時統制経済の下で「能率的な社会を形成する手段」を後押しすべきものだった。

 こうして、広告業界側の「自主規制」が、新聞広告の姿を変えていく。中瀬は同書で指摘した。「商品の質を強調し、訴求するという広告本来の使命」は影を潜め、率先して時代に迎合し「戦争気分を謳歌(おうか)し、士気を鼓舞する傾向(広告の教育的機能)がますます顕著になっていった」。

 寿屋(後のサントリー)の広告が41年夏、がらりと性格を変える2年も前、業界は既に方向付けをしていたのだ。41年8月12日の神奈川県新聞(本紙の前身)に掲載された寿屋の広告「お料理の設計」は、その広告観を実践していた。

 「強健な肉体を建設する為(ため)には、よき主婦の手になる、よき栄養設計に俟(ま)つことが多い(略)主婦方よ!豊富な栄養知識を活用して、いやしくも一家の健康に関する限り何等(なんら)不安を起させないだけの用意が欲しい」。生活の場で持ち出された「設計」の語が「能率的な社会」に結び付く。

 紙の統制で広告スペースは狭まる一方だった。けれども同年、電通は空前の収入を記録する。「教育的」な広告の成果だった。


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