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神奈川新聞と戦争
(108)1941年 「意識操作」の危うさ

神奈川新聞と戦争 神奈川新聞  2019年10月06日 05:00

巧みなデザインで家庭や職場も戦線の「鎖の一環だ!」と説いた寿屋の広告=1941年8月9日付神奈川県新聞(本紙の前身)
巧みなデザインで家庭や職場も戦線の「鎖の一環だ!」と説いた寿屋の広告=1941年8月9日付神奈川県新聞(本紙の前身)

 戦時下、新聞広告は戦意高揚の片棒を担いだ。その一端は、早くも大正デモクラシーの時代に兆していたという。経営史学者の中瀬寿一は著書「日本広告産業発達史研究」(1968年)で指摘している。

 一例が「広告に社会時相なり政治的なものをおりこむ試み」だ。「“至誠はすべての力に勝つ”(ワシントン)、“勘忍(かんにん)は無事長久の基”(徳川家康)、“汝(なんじ)の敵を愛せよ”(キリスト)などの格言」を入れた仁丹の広告や「“カルピスと日米問題”“日露親善とカルピス”」と題したカルピスの広告を挙げた。

 中瀬はこれらを「非常に危険な要因」だと捉えた。スローガン付きの広告が「消費者心理、広告心理」にとどまらず「民衆心理、民衆意識」を「操作」し始めたからだ。本稿で紹介した戦時下の寿屋(後のサントリー)の「献納広告」は、この手法が適用されたものといえるだろう。

 大正から昭和初期にかけて、新聞広告の影響力は現在の比ではなかった。同書によると、33年の推計では広告費総額1億1100万円のうち新聞広告が5500万円と半分を占めた。

 広告面積を行数に換算した統計では、27年に2億行余りだった全国の新聞広告量は、不況の影響を受けながらも37年に2億5千万行へと拡大、戦前の最高値を記録した。新聞社の広告収入は販売収入に匹敵し、全国紙の中には紙面の6割を広告に割いた例もあった。

 中瀬によれば、存在感を増した広告は、新聞を「資本主義商品」の「宣伝・広告をになう媒体(メディア)」に変質させた。

 その帰結は、新聞の存在意義そのものの変化だった。「自由民権期や日露戦争に対する反戦運動期、さらに大正デモクラシー期におけるように、反政府的ないし反体制的な民衆的立場をとることができなくなった」。新聞自体が一つの「体制」になったのだ。

 同書によると、寿屋は大正末年、食品業界の広告の29%を占め、トップの座にあった。37年には、行数ベースで167万行に達し、味の素(192万行)と業界首位を争った。戦時体制が確立する頃、寿屋は影響力の大きな国家的スポンサーになっていた。


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