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平和つなぐ
戦争の惨禍 継承へ模索

社会 神奈川新聞  2019年10月03日 11:11

地図を手に当時を振り返り、「平和が一番大切」との言葉を繰り返す井上さん=逗子市逗子
地図を手に当時を振り返り、「平和が一番大切」との言葉を繰り返す井上さん=逗子市逗子

 戦後74年。被爆者が1人もいなくなる時代の到来が現実味を帯びる中、戦争の惨禍と当たり前ではない平和の尊さをいかに実感を伴って継承するかが、さらに大きな課題になっている。自身の体験を語ってきた当事者は時代の移ろいを肌で感じつつ、それでも自らの役割をまっとうする。戦争を知らない若い世代は被爆地を訪れ、その実相を学んだ経験を今も忘れずにいる。共通する思いは一つ。「今ある平和の意味を、一人一人が考え、行動することが大切だ」

 「たくさんの人が苦しみ、亡くなる戦争はいけない。平和の大切さを伝えていかなければ」

 逗子市内に住む井上典民さん(90)は今も、その思いを強く抱く。

 広島県本郷村(現福山市)に、7人きょうだいの長男として生まれた。

 クリスチャン一家だったが、小学生の頃、弟や妹、近所の子どもたちと一緒に近くの神社にお参りするのが毎朝の日課だった。「つまはじきにされないように」と考えてのことだった。時は太平洋戦争の真っただ中。手を合わせ、こう祈った。「戦争に勝ちますように」

 村民が召集されれば村境まで見送り、遺骨で戻れば授業を中断して出迎えた。「戦争に勝たなければならない。そう教わってきた」

 16歳の時、広島市中心部から約6キロの、広島湾に浮かぶ金輪(かなわ)島で、全国から集められた食料や物資を陸軍船舶隊の倉庫に積み、船で各地に送る作業に従事していた。

 1945年8月6日。兵舎前広場で、朝礼前のひとときを過ごしていた。午前8時15分。「ピカーッ」。白い閃光(せんこう)が走った。直後に熱風が波のように体に押し寄せ、5メートルほど吹き飛ばされた。「何が起こったのか」。広島湾の先へ目をやると、市中心部が雲海のような白い雲に包まれ、その上空にきのこ雲が上っていた。

 新型爆弾が投下されたと聞き、爆心地から約2キロ離れた下級生予科寮まで救援に向かうよう命令が下された。

 市中心部は「生き地獄」だった。焼けただれて男女の区別もつかない人、真っ黒焦げの死体、赤ん坊を抱いて「今まで生きていたのに」と泣き叫ぶ母親…。「『助けてくれ』と求められても、どうすることもできなかった」。予科寮は倒壊していた。がれきの下から1人を引っ張り出したが、6人が亡くなった。

 翌日から、救護所となった小学校で負傷者を看病した。部屋には、やけどの臭いが充満し、苦しみうめく声がそこかしこから聞こえた。遺体は衛生兵が校庭の隅に積み重ね、重油を掛けて焼いた。

 「毎日毎日、死体を目にした。『これが戦争か』ということしか、頭になかった。悲しいとか、そういう感情は生まれなかった」

 看病していた女性の遺体を荼毘(だび)に付している時、米軍艦載機の機銃掃射が襲った。死してなお、ゆっくりと弔うことすら、許されなかった。

◆再び戦争が起こらないために

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