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平和つなぐ
「記録」重み増す役割 日記や手記で被爆体験継承

社会 神奈川新聞  2019年10月02日 10:45

三浦市内に住む80歳の女性の母がつづった女性の成長記録
三浦市内に住む80歳の女性の母がつづった女性の成長記録

 広島で生まれ育ち、今は三浦市内に住む女性が今夏、まな娘の成長をつづった母の日記を手に、自らの被爆体験を語った。市内在住の姉妹は、広島で放射線にさらされた若かりし頃の父の体験を手記からたどった。戦後74年。平均年齢82・65歳(3月末現在)と被爆者の高齢化がさらに進み、当事者が直接、語る機会が減る中、今は亡き人の残した「記録」が継承に果たす役割が、ますます重さを増している。

 「戦争を知らない世代ばかりになってきていることが怖い。自分の役目かなと思い、話します」

 そう語り、取材に応じた女性(80)は1938(昭和13)年、広島市郊外に生まれた。もともと体が弱く、発熱してはよく病院に通った。

 45年8月6日。その日も父に連れられ、電車を乗り継ぎ、病院へと向かった。母が手作りしてくれた、白地に赤の小花柄のお出掛け用のワンピースを身にまとい、午前7時半ごろ、自宅を出た。歩くのが遅く、電車を1本逃した。後に、逃した電車が原爆で跡形もなくなったことを知った。

 車内は通勤客らで混雑し、立っているのがようやくの状態だった。「がたん」。電車が突然、大きな音を立てて止まった。見上げると、大人たちが車内で頭から血を流していた。「何でだろう」。車掌に誘導され、外に出た。さっきまでの夏空がうそのように、真っ暗だった。「いつの間に、太陽がいなくなってしまったのだろう」。6歳の少女はそう思った。

 だが一変していたのは、空だけではなかった。

 大勢の人々が暗闇の中、髪を逆立たせ、逃げ惑っていた。「橋が落ちている」「大変だ」。あちこちから聞こえる叫び声。それに混じり、馬のいななきも耳に付いた。

 父と必死に逃げた。途中、トラックの荷台に乗せてもらい、国道沿いの自宅で降ろしてもらった。自宅周辺は大きな被害を免れていた。

 父は叔母を探して何度も市中心部に入り、82歳の時、がんで他界した。その叔母は、赤ちゃんを背負うような格好で骨で発見された。戦後に生まれた8歳下の妹は、甲状腺や肺にがんが見つかった。

◆脳裏の記憶 語る決意

 女性は戦後、結婚し、家族で開業する夫に付いて、三浦市内に転居した。原爆症は患わなかった。それでも、自分の子どもに影響が出ないか、不安にさいなまれた。丈夫に育ち、安心した。

 今も脳裏に焼き付く74年前の光景。それを市内で話したことは、ほぼなかった。「大切なことだからこそ、簡単には口にできなかった」。だが時がたち、年を重ね、被爆者が減っていく現実に、自らの役目を感じ、語る決意をした。

 記憶のあいまいな部分は1冊の日記に頼った。母が残した女性の成長日記だ。

 例えば、原爆が投下された8月6日のページ。「はしかの後、中耳炎になり通院」「服も何も血だらけ。千人にひとりの無傷で帰ってきた」と記されていた。それから3週間後の29日。「突然熱を出した。髪が抜ける。立てなくなっている」と原爆の影響をうかがわせる記述もあった。

 日記には、女性が子どもの頃に描いた絵も挟まれていた。戦車や艦船、飛行機…。戦争の影を色濃く残すものも、母にとっては大切な作品だった。

 「原爆被害のことを忘れて欲しくない」。そう願う女性は、続けた。「原爆だけじゃない。日本中の人があの時、つらい思いをした。戦争は一人一人に起こりうること。起こさないためにどうしたらいいのか、一人一人が考えて欲しい」

◆「地獄絵そのもの」

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