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平和つなぐ 戦後74年の夏
90歳、元少年飛行兵が初めて語る戦争体験

社会 神奈川新聞  2019年09月09日 19:01

同期生 特攻で命落とす

 旧陸軍の少年飛行兵だった90歳の男性がこの夏、自らの体験を家族に初めて打ち明けた。志願したことを誇りに思い、多くの勲章を得たいと考えていた当時。戦後、奪った命の数と引き換えに授与されることに気付かされ、長く口を閉ざした。だが戦後74年。一つ違いの同期生が特別攻撃隊(特攻隊)で命を落としたことを知り、あの時代を生き延びた人間として継承する責任を感じた。「戦争は惨め。二度とやってはいけない」。卒寿を迎えた男性はこれから、証言をしていく決意だ。


当時の写真とともに、少年飛行兵時代を振り返る杉本さん=8月、逗子市沼間の自宅
当時の写真とともに、少年飛行兵時代を振り返る杉本さん=8月、逗子市沼間の自宅

 逗子市沼間に住む杉本明さんは、14歳だった1943年10月、志願して大分の少年飛行兵学校に入った。通っていた国民学校高等科はお祝いムードに包まれ、担任は自宅で祝賀会まで開いてくれた。

 入校後、班長の一言で現実を知る。「お前ら、生きて帰れると思ってないだろうな。命が惜しいなら帰れ」。飛行兵になることは死ぬことだと思ってもいなかった。もう帰れるはずもなかった。「帰れば、家の恥。だまされたような気持ちになった」

 適性検査で通信兵に選ばれた。鉄製の円の中で回って方向感覚を養い、高所恐怖症を克服するため高さ3メートルの高台を歩かされた。44年10月からは水戸の航空通信学校で、大本営から送られる暗号を翻訳し、飛行機への風の影響を操縦士に伝え、爆弾を投下する技術を磨いた。

 45年に入り、戦況は悪化の一途をたどる。米軍の戦闘機が飛来し、飛行機の格納庫を目掛けて機銃を掃射した。迎撃した日本の飛行機が撃墜され、真っ逆さまに落下するのを間近で見た。加古川、鳥取と移り、特攻隊が目標とする米艦隊を海上で探す「索敵」に充てられた。既に米軍が沖縄を制圧しつつあったが、何も知らされないまま。「なぜ海に出るのか分からなかった。でもやらないと、ぶん殴られる。怖くてやっていたのが本音だった」

 その年の8月15日。ラジオから流れる玉音放送は音声が乱れ、理解できなかった。3日ほどして終戦を知った。生きている間に戦争は終わらないと思い込んでいた。だが、生き残った自分。「戦争が終わったという意味が分からなかった」

 復員後、地元・熊本の中学校に編入し、東京の大学へと進んだ。入学式で、大学が軍事教練に最後まで抵抗し、演説に訪れた陸軍大佐に向かい、学生たちが「何千人と殺した勲章に、何も価値はない」と反論したことを聞かされた。

 がくぜんとした。「少年飛行兵時代を誇りに思い、勲章をたくさんもらいたいと思っていた」。そう教育もされた。信じ切っていたものが瓦解(がかい)した。「兵隊に行ったことは何も意味がなかったんじゃないか」。社会や大人が信用できなくなり、むなしさにもさいなまれ、自身の経験を話す気を失った。

 それから70年余り。この夏、特攻で他界した伯父らの存在を伝える高徳えりこさん(52)=三浦市=の語り部活動を知った。すぐに高徳さんが教材として使う本を読み、少年飛行兵学校の同期だった一人が17歳で命を散らしたことを知った。

 思い返せば、1歳上の同期生は入校直後から実戦での訓練を重ねていた。「私が生き延びられたのは、昭和4年生まれだったからだけ」

 運という心もとないもので永らえた命。「二度と戦争を起こすもんじゃないと伝える責任がある」。自らの体験を初めて、息子や娘に話して聞かせた。

 「きょうを無事に生きられるかどうかという1年10カ月だった」と振り返る杉本さんは、言葉を継いだ。「戦争になれば、人間が人間でなくなる。どうすれば幸せに暮らせるのか、一人一人が考える材料にしてほしい」


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