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傷痍軍人がパラの原点 64年五輪の活躍が1冊に

社会 神奈川新聞  2019年08月30日 12:00

箱根療養所の資料を調べる井上さん=小田原市栄町
箱根療養所の資料を調べる井上さん=小田原市栄町

 開幕まで1年を切った東京パラリンピックだが、1964年の東京大会に国立箱根療養所(現・国立病院機構箱根病院=小田原市風祭)から傷痍(しょうい)軍人を含む19人が出場し、大活躍したことは地元でもあまり知られていない。これらの事実をまとめ、来年夏の出版に向けて準備している「戦時下の小田原地方を記録する会」は「日本開催を契機にパラリンピックの歴史と、箱根療養所が果たした役割を知ってほしい」と話している。

 パラリンピックのルーツは、第2次大戦後の英国で脊髄損傷の傷痍軍人専門のストーク・マンデビル病院が48年のロンドン五輪に合わせて院内で開いたアーチェリー大会とされる。

 この大会が国際化し、60年には五輪と同じ都市で開催するようになり、64年の東京大会で「パラリンピック」と名付けられた。「パラ」は当時、下半身まひを意味する「パラプレジア」から取られた。

 箱根療養所は、明治期から東京・巣鴨にあった傷痍軍人の療養所「廃兵院」(後に傷兵院)が36年に大窪村(現・小田原市風祭)に移転して開設。入所者は脊髄損傷が多く、その研究・治療の一大拠点だった。

 戦後は早くからリハビリにおけるスポーツの効果に着目し、58年ごろからアーチェリーや水泳を取り入れた。同会事務局長の井上弘さん(64)は「小田原で初めて組織的にアーチェリーをやったのは箱根療養所。そこから交流のある団体へと広まっていった」と地元のスポーツへの貢献を強調する。


1964年のパラリンピック東京大会開幕を伝える神奈川新聞紙面。青野さんの選手宣誓も写真付きで紹介している(同年11月9日付)
1964年のパラリンピック東京大会開幕を伝える神奈川新聞紙面。青野さんの選手宣誓も写真付きで紹介している(同年11月9日付)

 同会の調べでは、64年の東京大会には53人の日本代表選手のうち、19人が箱根療養所から出場。日本が獲得した9個(一説に10個)のメダルのうち、アーチェリーやフェンシング、競泳などで7個のメダルを勝ち取ったという。井上さんは「早くから治療にスポーツを取り入れており、“付け焼き刃”でなかったのが理由ではないか」とその強さを推測する。

 同会は箱根療養所の19人の選手中、40代の選手4人に着目。年齢的に傷痍軍人と推測したが、確実に分かったのは選手宣誓を務め、フェンシングと競泳で銀メダルを獲得した当時42歳の青野繁夫さん(故人)のみだった。

 今年で創立40周年を迎えた同会は、90年代から箱根療養所の傷痍軍人について、本人インタビューなどの取材を重ねてきた。当時はパラリンピックへの意識はなかったが、日本開催が決まり、前回の東京大会に廃兵院の流れをくむ箱根療養所が果たした役割に気付いた。現在は埋もれた活躍にスポットを当てるべく、資料収集に追われている。

 64年の東京大会以降、日本からパラリンピックに出場した傷痍軍人はいない。一方で欧米からは近年のロンドン大会(2012年)やリオデジャネイロ大会(16年)にもイラク戦争などの傷痍軍人が出場している。井上さんは「それもパラリンピックの一面。平和の祭典であるが、原点は戦争にあり、そういった視点も持ってほしい」と願っている。


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