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神奈川新聞と戦争
(103)1941年 広告から国策宣伝へ

神奈川新聞と戦争 神奈川新聞  2019年09月01日 05:00

 見落とすほどの小さな活字で「赤玉ポートワイン」と刷られた寿屋(後のサントリー)の広告が本紙の前身、神奈川県新聞に掲載されたのは、1941年7月7日だった。日中戦争の端緒となった盧溝橋事件のちょうど4年後に当たる。

 同じ紙面の記事には「意義深き事変第四周年記念日」「聖戦こゝに第四周年の記念日を迎へ」などの文句がいくつも躍った。大政翼賛会の発足をはじめとする戦時の「新体制」の下で、国民の戦意を高揚させる重要な節目だった。

 寿屋の広告の変容がこの節目に合わせたものかどうかは、はっきりしない。ただ、それは必然だった。38年の国家総動員法に基づく新聞用紙供給制限令によって、商業広告への規制が強まっていたからだ。

 本社論説副主幹などを歴任した山室清の著書「新聞が戦争にのみ込まれる時」には、40年に県警特高課が県内日刊紙の経営者を県庁に集め「今後は申し込み以外の広告は一切認めない。広告勧誘はすべて恐喝と見なして取り締まる」と命じた場面が記されている。

 ページ数は制限令で37年に8ページから6ページへ、太平洋戦争開戦後に4ページ、2ページへと順次減らされた。スペース自体もなかったのだ。

 こうした状況にあって、広告は変質を余儀なくされた。社会学者で広告研究者の山中正剛は、論文「広告コミュニケーション研究の課題と方法」で、この流れを「広告」から「宣伝」への推移と位置付けた。商品を普及させるための広告技術は、国策と結び付き、プロパガンダ(政治・思想的な宣伝)に変容したのだ。

 同論文は、この変容が、必ずしも一方的な強制によってなされたものでないことも指摘する。同時代に発表された広告界の論客は、次のごとく、率先して国策に同調した。「過去の広告技術はさっぱりと思ひ切るべきである。新体制に即したやり方を創造して行くことこそ、これからの宣伝人の任務ではあるまいか」

 その具体的な方法の一つが、自社の広告スペースを国策宣伝に供する「献納広告」であった。

 41年8月4日の県新聞には「何軒あらうと ひと世帯」と題した赤玉ポートワインの広告が掲載された。住民を組織化し、総動員体制に組み込む国策を宣伝するための「献納」だった。


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