1. ホーム
  2. 社会
  3. 過密地の軍事基地(1)集団移転「国の犠牲の人生か」

厚木基地物語
過密地の軍事基地(1)集団移転「国の犠牲の人生か」

社会 神奈川新聞  2019年08月16日 16:38

厚木基地の礼拝堂。もとは旧日本軍の武道場だった
厚木基地の礼拝堂。もとは旧日本軍の武道場だった

 米海軍と海上自衛隊が共同使用している厚木基地(大和、綾瀬市)は、長く空母艦載機の陸上拠点として使われてきた。基地周辺は過密化が進み、航空機騒音や事故を巡る問題を招いている。戦後に連合国軍総司令部(GHQ)総司令官のダグラス・マッカーサーがコーンパイプをくわえて降り立ってから、厚木はどのような歴史をたどってきたのか。

 厚木基地で今も使われている礼拝堂は、用途に似つかわしくない純和風の外観を持つ。マッカーサーが、旧日本軍の建てた武道場を目にして「『礼拝に使う』と決めたといわれている」(基地渉外部)との説がある。内部には十字架や聖母像が飾られているが、板張りの壁や瓦屋根は当時のままだ。

 旧日本軍によって築かれ、現在は米海軍のアジアにおける一大拠点となっている厚木基地の歴史を、敬虔(けいけん)な米軍人や家族とともに見つめてきた。

  ■■


礼拝堂の内部=厚木基地
礼拝堂の内部=厚木基地

 1959年春。当時の大和町の住民が国への陳情をまとめた。厚木基地に隣接して暮らす住民たち40世帯、250人だった。

 「このごう音に耐えられない。集団移住をしたい」

 もともとは、この地で農業を営んでいた住民たちだ。しかし1941年に旧日本海軍の命令で、田畑が一気に買い上げられる。「国への協力」という大義名分には逆らえない。軍が集落に通達してから、買い上げが決まるまで、1時間もなかったという。

 500万平方メートルに及ぶ厚木基地は、こうして誕生した。

 やがて終戦。田畑が戻ってくることに住民たちは期待を募らせた。だが、マッカーサー元帥が降り立った基地は米軍基地に変わる。1950年代からは、飛来する航空機がプロペラ機からジェット機となり、騒音被害も激しくなっていった。

 騒音にさいなまれる地区からは、その後も陳情が続き、基地からやや離れた地域への集団移住が実現することになる。 

 だが、ある農家の妻は集団移住への陳情時に、こんな思いを明かしている。

 7年の新婚生活を過ごした夫は、徴収されて外地へ向かい、帰ってこなかった。「私たちは旧海軍に土地を与えた。軍隊へは夫も差し上げた。その上、今はこの爆音に苦しめられている。私の人生は国の犠牲となるためにあったのでしょうか」

  ■■

 冷戦の歴史にも、厚木基地は名前をとどめている。

この記事は有料会員限定です。

月額980円で有料記事読み放題/100円で24時間読み放題のコースも。詳しくはこちら


シェアする