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神奈川のベトナム戦争(3)
米社会にも残した傷 戦後に深化した各国関係は

社会 神奈川新聞  2017年09月10日 10:03

1967年9月、ベトナム南部カムラン湾で、弾薬を積み込む米艦船の乗員たち(米海軍提供)
1967年9月、ベトナム南部カムラン湾で、弾薬を積み込む米艦船の乗員たち(米海軍提供)

 ベトナムのカムラン湾は、フランスの旧植民地時代から世界屈指の良港として知られた。ベトナム戦争時には、米軍が南ベトナム領の軍事的拠点に位置づける。海岸には通信施設があった。

 「ベトナムは美しい国だが、とりわけ素晴らしい海岸だった」。元海軍人のデニー・ライスさん(69)がここに赴任したのは、1969年だった。

 新鋭のテクノロジーだったマイクロ波の送信技術を、南ベトナム軍の兵士たちに教えることも多かった。講義は楽しかったという。「米国が戦った相手はベトナム人ではなく、共産主義の浸透」との思いは、今も揺らがない。

 だが帰国時には、ひげを蓄えた。軍人らしくない風貌で、ほかの乗客たちに溶け込めるようにするためだ。「空港で帰還兵が『赤ん坊殺し』と非難されるような時代だったから」

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 反戦世論の燃え上がった米国社会では、ベトナム帰還兵は不名誉の象徴と見なされ、厳しい目が注がれた。戦場の過酷な体験から心労が募り、家族や社会との関わりを絶っていく人も少なくなかった。

 海軍の士官候補生だったアル・ウェルマンさん(71)が奨学金を得て学んでいた大学でも、徐々に軍人への風当たりは強まっていった。学生食堂にいた時、知らない学生から軍服にわざと食事をこぼされ、ののしられたという。

 巡洋艦の乗員として南シナ海のレーダー監視にも従事。70年秋には横須賀基地(横須賀市)に寄港した。

 「大戦で米軍が日本を攻撃した歴史もあり、基地の外に出るのには不安もあった」。大戦中に軍人だった父が戦地での体験に晩年まで苦しめられた姿が、目に焼き付いていた。「だが日本人は友好的だったし、横須賀の日本人技術者の腕にも感銘を受けた。(当時フィリピンにあった米軍基地)スービックでは1カ月かかる整備や修繕の作業が、横須賀では1週間で終わっていた」

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 その横須賀は今、米海軍施設の技術部門で働くライスさんの職場でもある。

 湾を挟んで米軍と向かい合う海上自衛隊の横須賀基地からは、護衛艦「いずも」が2017年5月、カムラン湾に寄港した。米軍の高速輸送艦も一緒。米軍の主導する人道支援活動の一環だった。

 日米とベトナムの関係深化に感慨を深めるライスさんだが、泥沼化を止められなかった戦争の教訓もかみしめる。「平和を望まない帰還兵はいない。だが戦争体験は個人的なもので、つらくもあるから、周囲にはあまり語ってこなかった」。帰還兵の高齢化が進むなか、体験が語り継がれる必要性を感じてもいる。

 当時の国防長官、ロバート・マクナマラ氏は後年の回顧録で「ベトナム戦争は誤りだった」と告白している。ウェルマンさんは、軍の活動に関心を持ち続けることの重要性を言う。

 「当時の徴兵制は評判が悪かったが、兵役を終えた人間が周囲に体験を伝えることで、自国の軍が海外でやっていたことを広く気付かせる効果はあった。今は軍関係者が多くの国民から離れた基地の中に暮らしているから、海外任務の実相はよく知られていないのではないか」

元ボートピープル、今は米軍人 「アジアの信頼醸成を」

 ベトナム・カムラン湾から内陸に入った高原都市ダラットは、今も商都ホーチミン(旧サイゴン)の避暑地として名高い。

 ベトナム系米国人のラン・ダラット陸軍中佐(50)はこの地で、「グエン・タイ・ルアン」の名のもとに生まれた。ベトナム戦争の終幕となるサイゴン陥落は1975年4月、8歳の時だった。

 南ベトナム側の軍で通訳を務めた父は、共産政府体制のもとで監視の対象となった。隣国のカンボジアや中国とも軍事衝突。緊張の日々が続いた。

 81年3月の未明、母や兄弟とともに家を出た。岸を離れた25人乗りのボートには、140人近くが乗っていた。

 南シナ海に出て5日後、エンジンが止まり、海上を漂う。飢えと渇きが限界に近づいた一行は、米空母「レンジャー」に救助された。

 ダラット中佐はフィリピンの難民キャンプを経て米本土に渡り、カリフォルニアで学校に通った。母国で教師だった母は工場や食堂で働き、子どもたちを養った。一時は母国で収監されていた父との再会は、高校を卒業する間際まで待たなければならなかった。


南ベトナム出身のダラット米陸軍中佐。手前は、脱出時に乗っていたボートが米空母に救出された際の写真
南ベトナム出身のダラット米陸軍中佐。手前は、脱出時に乗っていたボートが米空母に救出された際の写真

 戦争後、急速に社会主義化が進んだベトナムからは多くの難民が「ボートピープル」として国外に脱出した。国際社会の関心も高まり、日本も79年にインドシナ3カ国の難民受け入れを決定。大和市内にも「大和定住促進センター」が整備され、98年の閉鎖まで難民が日本語や日本文化を学んでいる。

 米政府も多くのベトナム難民を受け入れたが、南ベトナム政府や軍人の関係者が多かったこともあり、ダラット中佐は「ベトナム人に対する米国社会の感情は悪かった」と振り返る。自身が陸軍入りを決めたのも、蔑視されがちな現状を変えたいと思ったからだった。

 アフガニスタンやドイツ、韓国などの任務を経て、2016年から在日米陸軍司令部(座間)に配属されている。妻は韓国出身だ。

 戦争の爪痕の残る国から命懸けで脱出し、米国で数奇な半生を送ってきた中佐だが、自身を「米軍人とアジア人、二つの顔がある」と表現する。

 「日本にいると『自分はアジア人』との思いを強くする。米軍人として地域の利益が守られるため、相互の統合と対話、信頼醸成が進んでほしいと思う」


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