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神奈川のベトナム戦争(2)
市民と兵、基地の街で反戦を叫んだ

社会 神奈川新聞  2017年09月09日 11:28

ベトナム戦争中、横須賀の街で米兵に配られたパンフレット「ヨコスカ・デービッド」
ベトナム戦争中、横須賀の街で米兵に配られたパンフレット「ヨコスカ・デービッド」

 横須賀市の京急線汐入駅前にそびえる「横須賀芸術劇場」が、米軍下士官の集会場(海軍兵員クラブ)だったベトナム戦争当時。週末になると集会場前の路上で、ガリ版刷りのパンフレットを米軍人に配る市民グループの姿があった。

 パンフレットのタイトルは「YOKOSUKA DAVID(ヨコスカ・デービッド)」。少年ダビデが巨人ゴリアテを打ち倒した聖書の説話になぞらえ、巨大組織としての軍に立ち向かう兵士個人の自立を促していた。

 1970年秋の創刊号の表紙は「横須賀基地の兵士への公開書簡」で始まっている。執筆者は匿名の「ヨコスカGI」とある。「われわれは人間だ。番号ではなく人間として扱われるよう求める権利がある」

 基地の街のベトナム反戦運動は、軍の在り方や戦争に疑念を抱く現役兵と地元の市民が連帯して、歴史を刻んでいく。基地正門に近い「どぶ板通り」の外れには、平和運動の拠点が構えられた。喫茶店のスタイルで、米兵と日米の市民が平和を語り合う場。パンフレットの名から取った「ヨコスカ・デービッド」が店名として、入り口の看板に掲げられた。


ブライアン・ビクトリアさん
ブライアン・ビクトリアさん

 「街のバーをはしごして懐が寂しくなった米兵に、コーヒーをごちそうしながら平和を説いた」

 当時「ヨコスカ・デービッド」で活動していたブライアン・ビクトリアさん(77)は、仏教の僧侶でもある。

 米ネブラスカ州出身。当時は徴兵制が導入されていた母国で、良心的兵役拒否の代わりに社会奉仕を課せられ、宣教師として来日する。大学で講義をした後、平和運動に身を投じた。

 米国社会には公民権運動の記憶も強かった。「黒人兵には『なぜ白人のために有色人種同士が戦わなければならないのか』と思う者もいたと思う」。71年12月には、反戦活動に注力していた米女優のジェーン・フォンダさんを招いた公演が横須賀で開かれた。

 75年の離日後は、研究職の道を歩む一方、予備役として軍隊内部からの啓発を試みもした。「あの当時は人間としてやるべきことをやったと思う。その後も中東で戦争が続いているのは悲しいが、退役兵たちが今も平和の声を上げていることには勇気づけられる」


反戦米兵を支援するため、市民グループが横須賀市内に構えた事務所。米国からのカウンセラーらも常駐した(1970年代撮影、新倉さん提供)
反戦米兵を支援するため、市民グループが横須賀市内に構えた事務所。米国からのカウンセラーらも常駐した(1970年代撮影、新倉さん提供)

 市民と一緒にベトナム反戦平和の抗議活動に参加する兵士も現れた。

 72年8月の「戦車闘争」では、空母の乗員だった兵士が市民とともに軍用車の前に座り込み、逮捕された。市民活動の場も米軍当局に目をつけられた。市民と話していた米兵を、憲兵が引きずっていったこともあった。

 「今では考えられないことですけどね」。現役米兵と市民が反戦で共鳴し合った歴史を、市民団体「非核市民宣言運動・ヨコスカ」の新倉裕史さん(69)が回想する。だが当時の活動で得た「戦場に近い兵士だから、平和への思いは強いはず」との信念は、今も変わっていない。

 「地元の反戦グループにも基地と個人的な関わりを持つメンバーは多かったし、戦争に『ノー』と言った米兵も僕らの隣にいた。今の時代にこそ、そうした基地の街の歴史を振り返る意義があると思う」

米団体と連帯 ■ 脱走兵支援も

 「ヨコスカ・デービッド」は後に、反戦の退役兵でつくる「ベトナム戦争に反対する帰還兵の会」(VVAW)の横須賀支部に衣替えする。

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