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神奈川のベトナム戦争(1)
岸根公園は野戦病院だった 衛生兵の記憶「過去を伝える」

社会 神奈川新聞  2017年09月08日 12:57

 およそ50年前は、ベトナム戦争の戦火が激化していった時期と重なる。米軍は50万人余の戦力を投入、神奈川の米軍基地も後方支援拠点としての機能を果たした。神奈川を行き交った元米軍人や地元市民の証言から当時の歴史をたどり、教訓を考える。


岸根兵舎地区の第106米陸軍総合病院にあるヘリパッド上を飛ぶヘリコプター=1966年、横浜市港北区(ウェザロールさん提供)
岸根兵舎地区の第106米陸軍総合病院にあるヘリパッド上を飛ぶヘリコプター=1966年、横浜市港北区(ウェザロールさん提供)

 敷地に並んだ4階建ての米軍兵舎では、内部を病棟や手術室などにする工事が続いていた。傷病兵の運搬には不可欠なエレベーターもついていない。

 住宅に囲まれた「岸根兵舎地区」(横浜市港北区)に、野戦病院「第106米陸軍総合病院」が配置されたのは、ベトナム戦争中の1965年12月だった。

 米陸軍の臨床検査技師だったウェザロール・ウィリアムさん(76)は、最初の病院設置にやってきた付属員の一人。本国の部隊にいた同年秋に「新しい病院をアジアにつくることになる」と指示を受けた。「日本行きを知らされたのは直前だった」

 岸根に着いて間もなく、横田基地(東京)や旧立川基地(同)から、傷病兵を乗せたバスや大型ヘリコプターが、次々にやってくる。当初は600床ほどだったベッド数が、ピーク時は千床を超えた。
 
 「岸根には若い傷病兵が多く、特にやけどの患者が目立った」。爆薬を取り扱う際の手違いによる事故が多かったようだ。

 採血時には「彼らが不安がらないように気を付けた」。軽傷者は治療後、戦地へ戻っていった。重症者は症状の安定を待って本国の病院へ送られた。ひつぎに入って帰国していった者も少なくなかった。

 戦争拡大に伴って、米軍は在日米軍基地で医療機能の強化を急ぐ。米陸軍医療センター(相模原市南区)やキャンプ王子(東京)などに相次いで病院が建てられた。だが、周辺住民からの反対運動も招くことになる。

 岸根の病院開設にも、感染症患者の移送に対する不安やヘリコプターの騒音被害を懸念する住民から、反対の声が上がった。


ウェザロール・ウィリアムさん
ウェザロール・ウィリアムさん

 もともと一部が旧軍や自衛隊の施設だった岸根は、横浜の中心市街地にあった米軍施設を整理統合する代わりに接収され、地元の反対を押し切って兵舎が建てられた経緯がある。ウェザロールさんらも「軍服姿では外出しないように」と指示されていたという。

 ベトナム戦争が停戦へ向けて動きだすと、戦費削減の必要性に住民の反対運動も重なり、米軍は病院縮小の検討に入った。太平洋軍司令部(ハワイ)は「(住民感情が)敏感ではない地」への病床確保が必要と提言。国防総省が68年にまとめた東アジア地域の基地統合の草案では「岸根とキャンプ王子の閉鎖が可能」とした。

 岸根の病院は70年に閉鎖。72年には兵舎地区が返還された。跡地は岸根公園として整備され、現在に至っている。

 66年に除隊していたウェザロールさんは、その後は研究者やジャーナリストの道を歩む。数年前に日本国籍を取得。昨春に、今度は日本国民として岸根を再訪した。

 憩いの場では、花が満開だった。軍事施設の面影は残っていない。

 「歴史は現在につながっているのだから、過去のことを伝えていくのは大切だと思う」。日米の防衛協力が深まってきた今だからこそ、その思いが強まる。

県内米軍基地 後方支援に力


軍地図
軍地図

 神奈川の米軍基地はベトナム戦争時、前線に向かう部隊の後方支援拠点としてフル稼働していた。

 横須賀基地(横須賀市)には作戦に向かう船が寄港し、補給や整備を受けた。アジア太平洋地域の米軍施設では最大規模の艦船修理廠(しょう)は、今なお現役だ。

 旧日本陸軍の造兵廠を米軍が転換した相模総合補給廠(相模原市中央区)は、破損した戦車で埋まった。修繕された後には横浜港の米軍専用ふ頭、横浜ノースドック(横浜市神奈川区)から船積みされて、戦地へ向かった。

 だが米軍は厳しい世論にも向き合う。1968年1月のテト攻勢で、北ベトナムと解放戦線が全土で一斉攻撃に入った様子が報道され、世論は反戦に傾いた。ベトナム中南部の村ソンミで米軍が非武装の住民500人を虐殺していた事件も明るみに出て、戦争は支持を失うことになる。

 「この東南アジアの危機は、日本がアジアのなかで自意識を持ち始めた時期に起きている。将来の日米関係のため、持続的努力を」

 ベトナムで米軍の地上戦が本格化し始めた65年4月、ライシャワー駐日米大使が本国に公電を送った。


横浜ノースドックの前に市民グループが座り込んだ「戦車闘争」=1972年8月
横浜ノースドックの前に市民グループが座り込んだ「戦車闘争」=1972年8月

 東洋史の研究者で、知日派として知られた大使は、日本の世論動向に懸念を深めていた。同年7月の公電では北爆を「日本人の心理では第2次大戦中の米軍の空襲に直結する」。だが戦争は止まらず、ライシャワー氏は66年に大使を辞任した。

 反戦運動は基地県・神奈川でも激しさを増した。72年8月には横浜ノースドックの前に市民グループが座り込み、ベトナムへの軍用車両搬出を阻んだ。「戦車闘争」といわれる。

 この時期には在日米軍基地問題も両国の主要議題になった。周辺の都市化や米国防予算の削減を背景に、基地統廃合の協議も加速。米陸軍医療センターやキャンプ淵野辺(相模原市中央区)などが返還された。半面で、一度は大幅な削減が計画された横須賀基地は、その後に方針が転換され、空母機動部隊の前方配備拠点となって今に至っている。

 ◆ベトナム戦争 親米のベトナム共和国(南ベトナム)の政権打倒を目指して1960年に南ベトナム解放民族戦線が結成され、共産主義のベトナム民主共和国(北ベトナム)が支援。米軍が65年に軍事介入し、北ベトナムへの空爆を開始、南ベトナムにも地上兵力を投入した。68年に南ベトナム全土で解放勢力が「テト攻勢」。国際社会の反戦世論にも押され、米軍は73年のパリ和平協定を経て全面撤退。75年にサイゴン(現ホーチミン)が陥落、南ベトナム政府が無条件降伏した。第2次インドシナ戦争ともいわれる。


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