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戦争犠牲者の悲しみ、今も 横浜大空襲の体験者が不戦訴える

社会 神奈川新聞  2017年08月16日 02:00

段ボールなどで作った焼夷弾の模型を使って説明する千島さん(左)と岩井さん=横浜市中区
段ボールなどで作った焼夷弾の模型を使って説明する千島さん(左)と岩井さん=横浜市中区

 犠牲者に直面した悲しみ、家庭を必死に守る母親の姿。悲惨な経験を語り継ごうと、戦争体験者が声を上げている。横浜市内で5日、「戦争体験を語り継ぐつどい」が開かれ、2人の女性が横浜大空襲の体験を語った。恐ろしい記憶を振り返り、不戦の誓いを聴衆に訴えた。

 岩井節子さん(87)=同市保土ケ谷区=は空襲当時、西区戸部地区の工場で働いていた。爆発音で驚き外に飛び出した。空を見上げたら、米軍機に乗って操縦桿(かん)を握っている兵士が見えたという。避難所の戸部小学校の近くでは、持ち込んだ遺体を燃やしていた。「戦争の犠牲者の悲しみが今も胸の中にある」

 病気を患ったのを機に6年前から使命を感じ話し始め、昨年からは市立境木中学校で講話もする。記憶を確認しに現場も訪れた。逃げる途中、尾張屋橋付近(西区)では、逃げ場を失い大勢の人が亡くなったことを教えてくれる人もいた。「語り継ぐ、この仕事だけは命ある限り続けようと思う」

 千島洋子さん(80)=港北区=は当時、小学3年生。記憶は鮮明に残っている。「自宅に2発、庭にも二十数発の焼夷(しょうい)弾が落とされていた。兄が炎上する障子、ふすまを蹴破り、母が風呂に張っていた水で消火した」。自宅周辺の見取り図や段ボールで作った焼夷弾の模型で説明する。

 「母親がどうやって家庭を守ったのか、子どものきれいな瞳を見ていると、若いお母さんに話したくなる」。千島さんは娘から10年ほど前に依頼され、語り始めた。「日本だけが被害を受けたのではない。なぜそうなったのか。日本人は何を考えていたのか」と、会場に問い掛ける。

 聴衆も次々に口を開いた。中学2年の生徒(13)=泉区=は「身近なところでも多くの人が亡くなられたのが衝撃的で、戦争はしてはいけないと思った」と話す。母親(44)は「子ども時分に聞いた戦争体験よりも引き寄せられた。子どもを守れるのか自問した」。

 参加者(88)=保土ケ谷区=は終戦当時16歳で、東京陸軍幼年学校の生徒だった。3年ほど前から小学校で戦争体験を話す中、子どもから「戦争をなくすにはどうしたらいいのか」という質問を受けた。

 「はたと思った。戦争は力だけでは抑止できない。徹底的に話し合い、仲良くすることだ、と」。広島、長崎、特攻隊の出撃基地だった鹿児島・知覧などの戦争遺跡を訪ねてもらいたいという。「戦争がどんなにひどいことかを自分の目で見て、確かめてもらいたい」

 戦後72年、体験者は戦争の悲惨さとともに不戦を訴える。


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