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生き証人が大磯で集会・継承72年の夏
姉と弟は同胞に殺された 満蒙開拓団地獄の逃避行

社会 神奈川新聞  2017年08月15日 10:34

満蒙開拓団に加わり生き延びた体験を語る佐藤文昭さん(右)と真壁喜次郎さん=大磯町郷土資料館
満蒙開拓団に加わり生き延びた体験を語る佐藤文昭さん(右)と真壁喜次郎さん=大磯町郷土資料館

 72年前の8月15日、旧満州(中国東北部)で敗戦は終戦と同義ではなかった。集団自決、現地人による報復、そして飢餓の苦しみ。国策で海を渡った「満蒙開拓団」は国に見捨てられ、死と隣り合わせの逃避行を強いられた。「若い人には想像できないかもしれないが、そういう時代が確かにあったことを知ってほしい」。齢(よわい)を重ねるとともに証言者の言葉は重みを増している。 

 5日にあった「戦争を語り継ぐ大磯の会」(実行委主催)。小田原市に住む佐藤文昭さん(77)は、記憶の糸を手繰り寄せるように語り始めた。

 1942年、長野県川上村から満州に入植した。兄である長男と次男は出征していたため、移住したのは父母、きょうだい、自身も含めた7人だった。

 日本は困窮する農村の人減らしなどを目的とし「王道楽土」をうたい、傀儡(かいらい)国家「満州国」への移民政策を推し進めていた。

 当時2歳。まだ生後4カ月だった弟ら小さな子どもらを連れた一家もまた、他の農村の家族らと同じく安住の地を夢見ていた。

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 45年8月9日、ソ連軍の満州侵攻によって事態は急変した。空からは爆撃が襲い、陸では農地などを奪った日本人への恨みを爆発させた現地人が襲ってきた。中国侵略の先兵的な役割を果たしていた関東軍は南方へ移動、開拓団の人々を置き去りにした。

 14日の敗戦前夜。逃避行を続けていた一行は、暴徒化した現地人の襲来に遭った。姉と押し入れに隠れたが、数センチ隣の女性は撃たれて亡くなった。母は殺された人の血を体に塗り、幼い弟を背負いながら死んだふりをしてやり過ごした。

 「このままでは全員死んでしまう。女と子ども、傷ついた者は自決するしかない」。翌15日、誰とはなしに口にするようになった。母とともに自決を迫られた、そのとき、6歳上の姉の次女末子さんが涙ながらにこう残した。

 「母ちゃんは生きて内地に帰って。あたいは弟2人と死ぬよ。3人だから平気だよ。母ちゃんは体が弱いから病気になったら、あたいの名を呼んで。治してあげるから。あたいはスズランの花が好きだから、スズランの花を見たらお線香をあげて」

 同胞の日本人が手りゅう弾を投げ込み、姉の末子さん、3歳だった弟は殺された。父の呼ぶ声にわれに返り、逃げようとしたが、今度は誰かに無言で足をつかまえられた。「地獄から助けを求める手が伸びてくるようで本当に怖かった」

 飢えをしのぐため、母は亡くなった人の頭蓋骨を煎じて飲ませてくれた。「きれい事なんて言ってられない。収容所では犬や猫も平気で食べた。生きるためにみんなが必死だった」

 6歳で日本に引き揚げた後、行動をともにした開拓団の仲間66人が亡くなったことを知った。戦後40年の85年、連行された父がソ連兵に撃たれて亡くなったことを聞いた。佐藤さんの戦争はようやく終わりを迎えた。

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 講演の聴衆は約100人。佐藤さんは「人間は欲をかかない方がいい。いつまでも忘れないように子や孫にも伝えてほしい」と伝えた。傍聴する側の年齢層は高くなっている。

 「語り継ぐ会」で登壇したもう一人、大磯町生まれの真壁喜次郎さん(89)は敗戦後、満州での収容所暮らしに思いをはせたが、会場には熱心に傾聴する一人の男性がいた。

 同町在住の安池一雄さん(89)。実は真壁さんの尋常小学校時代の同級生で、大磯駅から見送ったことを覚えているという。

 日本人が現地の子どもを殺し、逃走する事件に真壁さんが巻き込まれそうになった時、共に働いた中国人の親方が友達だとかばってくれたという。真壁さんの話に、安池さんは言った。「大磯も空襲の被害を受けたが、彼も大変な思いをして生き延びてきたことが分かった。戦争の経験や教訓を若い世代や多くの人たちに伝えられたら」

 2010年から開催される「語り継ぐ会」。語り部の人づてで次の証言者が紹介されるケースも多い。戦後72年。佐藤さん、真壁さんら生き証人は、語り継ぐ遺志をより強くしている。


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