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空襲におびえた記憶生々しく・継承72年の夏
「戦争は殺しっこ」 元勤労動員女学生が川崎で体験談

話題 神奈川新聞  2017年08月15日 10:31

戦時中の体験を語る鈴木さん=川崎市中原区の中原市民館
戦時中の体験を語る鈴木さん=川崎市中原区の中原市民館

 第2次世界大戦中、女学生時代に川崎市中原区の軍需工場に勤労動員され、戦火を生き抜いた元教員の女性がいる。空襲で燃える街、焼け死んだ人たち、米軍機の機銃掃射…。15歳だった当時の記憶は今も生々しく残る。「川崎中原の空襲・戦災を記録する会」が10日に中原区内で開いた催し「親子で知ろう 中原の空襲」で、戦時中の体験談を語った。 
 
 「当時は『日本は神の国だから絶対に勝つ』と信じていた軍国少女だった」。こう語り始めたのは神奈川師範学校(現横浜国立大教育学部)女子部に通っていた鈴木京子さん(88)=横浜市鶴見区。1945年1月に勤労動員令を受け、現在の中原平和公園あたりにあった「東京航空計器」の工場で働いた。

 「金づちやヤスリの使い方を一から教わり、爆撃機の計器類を製造した。でも私は上手に作れず、部品はなかなか合格しなかった」

 工場勤務中に空襲警報が鳴れば、約1・8キロ離れた防空壕(ごう)まで田んぼを走って逃げた。ある日、警報解除後に戻る途中、超低空を飛来する米軍機の機銃掃射を浴びたこともあった。

 「伏せろっ。田んぼに転がれっ」。誰かの叫び声を聞き、鈴木さんは銃撃音におびえながら身を小さくして助かったが、「何人かは亡くなった。戦争は嫌だ。殺しっこは本当に嫌だと思った」と振り返る。

 4月15日の川崎大空襲の夜は横浜市港北区の自宅から川崎方面が真っ赤に燃えるのを見た。「翌朝に工場に行くと、焦げた大きな機械が焼け跡に立っていた」

 動員替えで横浜市金沢区の日兵産業の工場へ。5月29日の横浜大空襲の日は煙が立ちこめる街を工場から中区の師範学校まで歩いた。焼夷(しょうい)弾で焼き尽くされた横浜市心部の無残な街が脳裏に残っている。

 「コンクリート造りだった伊勢佐木町の野澤屋、松屋などは残っていたが、他の建物は全て燃えて街がぺったんこだった」。道路脇に横たえられたおびただしい数の遺体も見た。「焼けトタンがかぶせられていたが、体が見えていた。黒こげの人、赤肌で血を流した人。戦争は殺しっこなんですね。本当に嫌だと思った」と沈痛な表情で続けた。

 「日本の各地に焼夷弾が降り注ぎ、戦況は悪化する一方だったのに大本営は一つも知らせなかった。玉砕なんてきれいな言葉を使ってね。でもそれは全滅ということ。当時の私は日本はまだまだ大丈夫なんだと信じ込まされていた」

 戦後、鈴木さんは教壇に立ち、横浜市内の小学校校長も務めた。


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