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ハマとひばり 昭和の歌姫
(1)焦土に響く「花言葉の唄」 杉田で劇場デビユー

カルチャー 神奈川新聞  2019年06月15日 12:00

【2005年4月3日紙面掲載】

 歌謡史に輝く巨星・美空ひばり(一九三七-八九年)。昭和と母の名から一文字ずつ取り「和枝」と名付けられた少女は、戦禍の傷跡が残る横浜から、瞬く間にトップスターに上りつめた。六月二十四日が命日となる歌姫が、ふるさとに刻んだ足跡をたどる。(横浜演劇史研究家・小柴俊雄)


神奈川新聞に掲載された杉田劇場の広告(昭和21年4月10日付)
神奈川新聞に掲載された杉田劇場の広告(昭和21年4月10日付)

 二〇〇五年二月、横浜市磯子区民文化センター「杉田劇場」の開館記念写真展を見物すると、久方ぶりにある資料にぶつかった。昔の杉田劇場での大高ヨシオ一座の手書きの公演ポスターである。

 旧・杉田劇場は、それまで劇場の一つもなかった磯子区で一九四六(昭和二十一)年元旦に開場。それから四年間演劇の殿堂として脚光を浴びた小屋で、いまの杉田四丁目「菊屋不動産」のあたりにあった。

 年月の記載のないそのポスターに書かれた演目は、「奴も人間」と「嫌われた伊太郎」の二つ。大高以下の配役が大部分を占めるポスターの片隅に「音楽 歌謠曲 おどりの美空楽団」と出ていて、列挙されている楽団員の中に「唄 美空一枝ちゃん」の名がある。

 この「美空一枝」こそ八九年六月に昭和戦後最大の歌姫として亡くなった美空ひばり(本名・加藤和枝)の最初の芸名。彼女が本格的にステージに立ったころを伝える資料である。

 美空楽団が杉田劇場に出演した形跡は、神奈川新聞に載った杉田劇場の広告で確認できる。それは同年四月十日から十六日までの大高一座の三の替りと四の替り公演である。大高一座はこのあと九月にも出ているがいずれも演目が手書きポスターとは異なっている。

 では、「美空一枝」が出演したのはいつだったのか。

 杉田劇場経営者の妻・高田能恵子(故人)が、ひばり一周忌の九〇年六月、語り残しているところによれば「四六年三月に五歳の長女が病死した。ひばりが歌う美空楽団が杉田劇場にやって来たのはそれから間もなくで、頭に大きなリボンをしたかわいい女の子だった」と、ある。このとき、美空は市立滝頭国民学校三年生で、わずか八歳の少女。三六年に歌手・松平晃と伏見信子がデュエットし一世を風靡(ふうび)した「花言葉の唄」を歌ったという。

 このことから、手書きのポスターが描かれたのは、大高一座の二の替り公演(一公演四日間)までの四月初旬だったろうと思われる。

 ひばりもデビュー五年後に「初めて舞台へ立ったのは終戦の翌年(四六年)、杉田(映画)劇場の実演に出して貰った時」と、語っている(「歌う三百六十五夜」『平凡』51年9月号)。

 美空ひばりのデビューについては、四六年九月、横浜・磯子のアテネ劇場で、というのが通説。しかし前述の実証から、「四六年四月の杉田劇場が美空ひばりの初舞台」であることを私は確信している。


こしば・としお 1933年生まれ。神奈川県庁入庁後、県史編集室、県立公文書館勤務などを経て、94年に退職。著作に「神奈川県演劇史(職業演劇1歌舞伎・新派・大衆演劇)」、「横浜演劇百四十年-ヨコハマ芸能外伝」など。横浜市中区在住。


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