1. ホーム
  2. 社会
  3. 春久丸事件 真相は藪、それでも

平和つなぐ 空襲74年 三浦(上)
春久丸事件 真相は藪、それでも

社会 神奈川新聞  2019年06月07日 17:11

三浦市戦没者名鑑を見つめる川崎喜正さん=三浦市三崎
三浦市戦没者名鑑を見つめる川崎喜正さん=三浦市三崎

 穏やかに波打つ海が広がる三浦市・三崎港。戦後10年がたった1955年、2町1村の合併で誕生した同市の市史に、太平洋戦争中の空襲被害の記載はない。

 被災はしかし、皆無ではなかった。三崎から出漁し、洋上の戦禍で落命した人たちがいる。市遺族会が45年前に発行した市戦没者名鑑記載の千人余のうち、死亡年月日が「昭20・2・16」、死亡場所が「大島北方海上」「大島方面」などと記された「6人」だ。

 1945年2月ごろ、サバ船「春久(はるきゅう)丸」が被害に遭った。戦禍を知る市民らによると、三崎港を出港し、米軍機の機銃掃射を浴びた。

 船主は、戦没者名鑑に記された1人、故・相澤久太郎さん。孫の相澤洋幸さん(67)=同市三崎=によると、船名は久太郎さんと、久太郎さんの父、故・春吉さんに由来し、親子2人でサバ漁を始めたとみられる。

 その日、故・神田藤吉さんも春久丸に乗船していた。娘のツネさん(86)=同=は藤吉さんから「乗組員5、6人で漁場に向かう途中、甲板にいた2人が飛来した飛行機を味方だと思って手を振ったところ、機銃掃射を受け、1人が亡くなった」と伝え聞いた。「父も頭にけがを負い、血だらけで三崎に帰ってきた」と振り返る。

 「三崎に戻ってきた時の船内は凄惨な状況だったようだ」と話すのは、川崎喜正さん(79)=同=だ。地元の医師さえ尻込みするほどの惨状。軍隊帰りの柔道整復師だった父の故・正治さんが遺体の失われた箇所にガーゼを詰め、包帯を巻いてつなぎ合わせて修復し、在りし日の姿に少しでも近づけて遺族の元へ届けた。

 春久丸が機銃掃射に遭った日、三崎港と大島沖の間を並走した船は数隻あったとされる。

 そのうちの1隻、サバ船「金兵衛(きんべえ)丸」は、燃料となる木の枝を求めて大島に立ち寄り、難を逃れた。空襲警報が鳴り、乗組員たちは島内の防空壕(ごう)に身を寄せた。父が金兵衛丸の船主だった鈴木長寿さん(86)=同=は当時のことを誰からともなく伝え聞いた。「漁師の間では悲劇として口承されているが、年月がたつにつれて忘れられつつある」

 戦後74年。春久丸の悲劇を知る人は限られ、詳細も錯綜(さくそう)する。

 戦没者名鑑には6人以外にもさらに2人、春久丸の乗組員だったとみられる名前が記されている。死亡場所はそれぞれ「大島沖」「大島付近」で春久丸と一致し、死亡した日付は「昭20・2・6」「昭20・1・16」でともに1桁違い。川崎さんは「誤って記載されたかもしれない」と推察する。

 「14人が乗り組み、9人が死亡」「16人くらいが乗船し、8人くらいが亡くなった」「12、13人が乗っていて3人が犠牲になった」。口伝は人数さえ定まらない。日付も食い違う。被弾時の状況は「漁に向かうさなかだった」「三崎に戻る途中だった」と証言が割れ、「自走できた」「えい航された」と帰港時の状況も異なる。

 「行政の資料は戦後多くが処分された。記録が残っていない以上、市民が継承していかなければ」。川崎さんは力を込めるが、もどかしさも感じる。「当時を知る人はほとんどが亡くなった。今となっては被害の実態は分からない」

 戦後生まれが人口の大半を占める今、地元で春久丸の記憶は途絶えつつある。

 「赤紙一枚で徴兵され、遺骨すら戻ってこないのが戦争。そんな恐ろしい時代の中で春久丸の悲劇は起きた。それなのに今の日本には、米国と戦争をしたことさえ知らない若者がいる」。川崎さんは憂い、そして嘆く。「これでは亡くなった人たちが浮かばれない」


シェアする

編集部のおすすめ

アクセスランキング

  1. 【台風19号】河川水位が各地で上昇 中小河川も危険

  2. 【写真特集】台風19号 神奈川各地の状況

  3. 【台風19号】「城山ダム放流へ」流域住民、避難所に殺到

  4. 【台風19号】多摩川氾濫の恐れ、川崎市が避難指示

  5. 多摩川・鶴見川、氾濫の恐れ 台風で川崎市が避難勧告

  6. 【台風19号】城山ダム、緊急放流へ 相模川流域で浸水も

  7. 高潮の恐れ、川崎・川崎区の一部に避難勧告

  8. 横浜・瀬谷区の一部に避難勧告

  9. 【台風19号】各地に避難所開設、住民避難が急増

  10. 【台風19号】城山ダム緊急放流、午後5時は見送り