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父を亡くした大空襲を語る 文芸評論家・ゆりはじめ

カルチャー 神奈川新聞  2019年06月07日 14:25

横浜大空襲について語るゆりはじめ=横浜市神奈川区のかながわ県民センター
横浜大空襲について語るゆりはじめ=横浜市神奈川区のかながわ県民センター

 大戦中の学童疎開の研究を続ける文芸評論家のゆりはじめが、1945年5月29日の横浜大空襲に合わせた「平和のための戦争展inよこはま」に参加した。本紙のインタビューにも応じ、疎開について「足手まといになる子どもだけを都市から追い出す目的があった」と、家族の離別を強いた非人道性を指摘した。

 ゆりは32年横浜生まれ。44年夏に縁故疎開で家族と離れ、独り秦野に預けられた。「都会に比べれば食べ物はあったけれど、みな空腹を抱えていた」。横浜から集団疎開した子どもたちが多く移った箱根へ、落花生を手土産に見舞いに行ったこともあるという。痩せた元同級生たちの姿に、食糧事情を読み取った。

 翌年3月、国民学校卒業とともに横浜に戻った。横浜大空襲の朝、ゆりは学校へ向かったものの警戒警報で帰宅。やがてザーッという音とともに焼夷(しょうい)弾が投下され、家の屋根をバリバリと突き破る音が響いた。

 家にいたのは父と下の姉。初め姉は焼夷弾を拾って外へ放り投げたが、すぐに追い付かなくなった。道路脇にあった隣組の防空壕(ごう)や庭の防空壕にも落ちてきたという。既に道を覆う炎に囲まれていた。延焼防止のため、強制的に建物を取り壊す「建物疎開」の空き地が近くにあり、そこに一家で身を寄せた。

 もうもうと立ちこめる煙に巻かれ酸欠状態になり、父はそこで亡くなった。ゆりも一時は意識不明になり、姉に起こされて一命を取り留めたという。「なんだか気持ちが良くなって気を失ってしまった」と、その時の記憶をたどった。

 雑誌や新聞の影響で、当時の子どもたちは自然と軍隊に憧れた。子どもたちは競うように模型飛行機を作ったという。学童疎開の名目も「将来の兵士」を温存することだった。ゆりは子どもが戦争に「動員」された時代を思い「検閲などが厳しかったとはいえ、ジャーナリストがもっと頑張るべきだった」と話した。

 講演会は5月26日と同31日~6月2日に横浜市神奈川区のかながわ県民センターで開かれた「戦争展」の一環で、1日に行われた。同展は市民らでつくる実行委員会の主催で24回目。


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