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ヨコスカと空母・第1部
配備前史(6)追浜の水面制限解除と「取引」に

社会 神奈川新聞  2019年03月24日 17:12

追浜の海岸に広がる自動車工場=1972年、横須賀市
追浜の海岸に広がる自動車工場=1972年、横須賀市

 横浜港を東京湾に沿って南に進み、市境を越えて横須賀に入った地が、追浜だ。「おっぱま」と読むため、しばしば難読地名の一つにも挙げられる。海沿いの埋め立て地には、日産自動車の国内主力工場や住友重機械工業の造船工場をはじめとする製造業が、重要な拠点を連ねている。

 ここは旧日本海軍による航空機研究の黎明の地でもある。明治末期に研究部隊が置かれ、水上航空機の研究が続けられた。

 昭和に入ると海軍航空隊が発足し、要員の育成を担った。終戦で軍が解体された後、一帯には工場が進出。朝鮮戦争では特需でフル回転したが、休戦後に低迷する。横須賀市はこの海を埋め立てて、大規模な輸送機産業を誘致する青写真を描いた。

 それには、なおも米海軍の管理下にあった海水面を返還してもらう必要があった。

 「直接米海軍と折衝する」-。横須賀市長の長野正義は、国に決意を表明している。東京の防衛庁を訪れ「制限水域の解除は追浜の埋め立て計画に不可欠だ」とも強調した。

 こうして、日米政府の目指す空母母港化と、地元の悲願だった米軍提供区域の解除が取引される構図の素地が、徐々に固まっていった。それは、地元の横須賀と米軍の駆け引きが、まさにヤマ場を迎えた時期でもあった。長野自身も後年、自著でこの間を「生涯で最も劇的な時期だった」と振り返っている。

 1972年9月19日、長野は米海軍当局との夕食会を終え、幹部たちと向き合う。「追浜の制限水域の解除は早急に認めてほしい」と、あらためて要望した。

 今度は、在日米海軍司令官のジュリアン・バーク少将が、長野に協力を求めた。

 「空母ミッドウェーが横須賀をホームとし、家族を居住させたい。国防費節減の考えから、艦艇の本国帰投回数を減らすためだ」

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