1. ホーム
  2. 社会
  3. 配備前史(5)日米会談の交渉「事前協議は不要」

ヨコスカと空母・第1部
配備前史(5)日米会談の交渉「事前協議は不要」

社会 神奈川新聞  2019年03月24日 17:11

 米海軍の駆逐艦部隊が横須賀基地に到着してから、半年が過ぎていた。

 「艦船の移動は極めて円滑に実施され、乗員や家族は地域に完全に溶け込んでいる」。米国務長官ウィリアム・ロジャーズに宛てた1972年5月9日付の書簡で、国防長官メルヴィン・レアードは「横須賀に関する計画の『第2段階』に入る経験は十分に得られた」と言い切った。

 「第2段階」とは、前年に実施された駆逐艦配備に続き、先送りされていた空母の配備を指していた。レアードは、国務省に「佐藤栄作首相に直接支持を求めなければならない」と、空母配備を巡る日本との交渉入りを求める。


空母の横須賀配備をめぐって国務省に協力を求めたレアード国防長官の書簡
空母の横須賀配備をめぐって国務省に協力を求めたレアード国防長官の書簡

 だが国務省側は、「空母の母港化は簡単ではない」との判断だった。空母配備と核兵器の持ち込みには、日米安全保障条約に基づいて必要となる「事前協議」という難題が控えていたからだ。5月23日付の国務省高官の公電が指摘している。「日本との間でこの問題を取り上げれば、米国の重要な防衛の権利を危うくする」

 この背景にあったのは、核兵器の所在を「肯定も否定もしない」(NCND)という米国の政策だ。艦船の場合、事前協議を通じて核装備の事実が特定されることになれば、寄港や領海通過を拒む国が現れ、部隊の運用に制約を受けかねない。

 在日米軍基地からベトナムへの出撃を巡る議論が、日本の国会で火花を散らしていたことも、国務省の懸念をかきたてていた。「相模原の米軍補給廠(しょう)では、米軍や南ベトナム軍の戦車が修理され、再び戦場に送られている。こうした事態を防ぐための歯止めだったはずの事前協議はどうなったのか」。5月の参院本会議でも、旧社会党議員の田英夫が、政府を問いただしている。

 だがレアードは、ロジャーズへの追伸で、国務省の懸念を「あまりに悲観的」と一蹴した。「駐日大使エドウィン・ライシャワーと外相の大平正芳の間で1963年4月に協議が持たれた。この際、日本の海域や入港艦船の核であれば事前協議を適用しないと確認した。日本政府はそれ以来、この解釈に疑問を呈していない」

 こうした議論が米政府で交わされていたころ、日本は首相交代の時期を迎えた。

 沖縄返還を見届けた首相の佐藤は72年6月、退陣を表明する。「角福戦争」とも呼ばれた田中角栄と福田赳夫の自民党総裁の後継争いは、田中の勝利に終わった。7月に第1次田中内閣が発足する。ライシャワー会談の当事者でもあった大平が、外相として再登板することになった。

 ハワイ語に「クイリマ」という言葉がある。「手を携える」という意味だ。この語を名に冠したハワイ・オアフ島の高級リゾート、クイリマ・ホテルは、72年8月31日、発足したばかりの田中内閣とニクソン政権による日米首脳会談の会場となっていた。

 国務次官のアレクシス・ジョンソンは、外相の大平と向き合った。

 ジョンソンが空母の意義を大平にひとしきり強調する。「西太平洋の空母は日本への核の傘に重要だ。横須賀に空母を配備したい」と求めた。

 続けて、日米安全保障条約に基づく事前協議も「必要ないというのが私自身の見解だ」とたたみかけた。「あなたとライシャワー大使の会談後、状況は変わってはいない。(配備は)家族がそこにいる、という意味だけだ」

 大平は答えた。「私自身で真剣に研究する」。そして、離席した。待っている記者団に対応するためだった。

 ジョンソンは残り、日本側当局者と短い会談を持った。この結果を記した公電には「大平外相と協議を試みた計画を実行することが、双方にとって利益になると確信した」とある。

 だが日本の国会では、議論がまだ続いていた。

 72年9月の衆院内閣委員会。「横須賀の艦船修理部(SRF)が佐世保に移ることになっていたのに、結果的に居座っている。さらに母港化となれば収まりがつかない」。旧神奈川1区選出の大出俊がただした。厳しい追及で紛糾させ、しばしば審議をストップさせたことから「国会の止め男」とも呼ばれた旧社会党の論客だ。

 大平の歯切れは悪い。「慎重に吟味しなければならない問題を含んでいる。計画を固めるところまで行っていない」

(敬称略)


シェアする