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ヨコスカと空母・第1部
配備前史(1)終戦後の横須賀、閉鎖寸前から一転

社会 神奈川新聞  2019年03月24日 06:00

博物館として保存されている空母ミッドウェー=2013年、米サンディエゴ
博物館として保存されている空母ミッドウェー=2013年、米サンディエゴ

 米カリフォルニア州南部のサンディエゴは、米軍が多くの主要拠点を構える軍都だ。基地を対岸の島に臨む海岸の桟橋には、米空母「ミッドウェー」が博物館として保存され、観光客でにぎわう。

ミッドウェーは1961年の就役から47年にわたって任務に就き、ベトナム戦争にも参加した空母だ。1973年には横須賀に配備され、米海軍が初めて米本土の外に恒常的に配備する空母として、機動部隊の中核を担った。配備期間は18年間にわたる。艦内の展示ではこの歴史を「マジック」と表現している。

 博物館では今、見学者のために、かつての乗員たちがボランティアでガイドを務めている。横須賀に勤務した経験を持つ者も少なくない。


当時の艦載機も展示されている空母ミッドウェーの甲板=2013年、米サンディエゴ
当時の艦載機も展示されている空母ミッドウェーの甲板=2013年、米サンディエゴ

 「横須賀は、いい地だった。電車は時間通り来るし、市民は親切だった。妻は日本を離れるのを嫌がったよ」。当時航海士だった男性(73)は空母のデッキで、目を細めて振り返った。「ミッドウェーは日米同盟に貢献したと思う。多くの問題があったことも分かっているけれどね」

 旧日本海軍の重要拠点だった横須賀基地は、今でも米海軍が唯一、恒常的に空母を配備する、世界でも特異な拠点となっている。その端緒となったミッドウェーの配備は、どのような経緯や議論、交渉を経て実現していったのか。機密指定の解除された外交文書や当時の議事録、関係者の証言・著作などから、歴史を再現する。

元日本兵の仕事場、米軍基地に

 旧日本海軍兵だった男性(86)は、あの1945年8月15日を、横須賀で迎えた。18歳の夏だった。

 「これで家に帰れる」。終戦を伝える「玉音放送」を耳にして、そんな思いを抱いた。「軍隊に入るときは『もう畳の上で寝ることはない』と思っていたからね」

 だが、日本は敗戦国。軍隊はなくなった。元兵士も食べていかなければならない。

 2年後、横須賀の基地に戻った。あるじは、占領国である米軍に変わっていた。

 職場は船の修理部門。明治時代に構えられた旧海軍工廠(こうしょう)が前身で、戦後にはそのまま米軍に接収され、米軍の艦船修理部(SRF)になっていた。

 艦船のボイラーの修繕を担当する。旧海軍で磨いていた技能が、ここでも強みになった。

 1965年に開戦したベトナム戦争が激しくなると、横須賀には傷ついた艦船が次々に訪れてくるようになる。

 「曲がった砲身を取り換えたり、潜望鏡を直したりと忙しかった」。修繕していた艦船の内部に泊まり込むことも、珍しくなかった。

 その横須賀基地は70年12月21日、大きく揺れた。在日米軍基地の統合計画が発表されたからだ。


米艦船の入港を歓迎する横須賀の街=1969年
米艦船の入港を歓迎する横須賀の街=1969年

 「米国は1971年6月末までに活動を縮小する。横須賀には大幅に縮小された規模の在日米海軍司令部と小規模部隊を存続する。第7艦隊旗艦は佐世保へ移る」「(横須賀の)6号ドックを除いた艦船修理部(SRF)を返還する」―。

 日米の閣僚や公使、軍幹部による日米安全保障協議委員会の合意は、横須賀を含めた在日米軍基地の整理統合を勧告する内容だった。

 このときの横須賀は、ほぼ基地閉鎖に近い計画が立てられていたことになる。米第7艦隊にとって西太平洋の最重要拠点となっている現在の実像からは、想像が難しいほどの大幅な縮小案だ。

 背景にあったのは、69年7月に米大統領リチャード・ニクソンが発表した「ニクソン・ドクトリン」だった。

 米国の同盟国は、自国の防衛に第一義的責任を負う-。

 地上戦が泥沼化の一途をたどっていたベトナムから「名誉ある撤退」をし、経済を立て直す。そうした原則の下で、国防費の大幅な圧縮と海外戦力の見直し作業が急ピッチで進んでいく。70年11月には、日米政府が「日米基地再検討委員会」を設置し、在日米軍基地の整理統合をめぐる調整を本格化させていた。

 ニクソン外交を仕切った国家安全保障担当補佐官のヘンリー・キッシンジャーは、対日政策に関して「基地の重要な機能を維持しながら、基地の構造や活用を段階的に変更する」と記している。

 だが、このとき米海軍の内部では基地縮小と並行して、別の議論も進められていた。

「佐世保の母港は難しい」

 それは、戦力態勢全体の見直しだった。

 このなかで、海軍制服組トップの作戦部長、エルモ・ズムワルトの主導のもとに、構想が結ばれたのが「海外母港」だ。

 艦船が米本土の西海岸から太平洋を渡ってくると、半月を要する。乗員が家族と離れる期間が長くなり、士気にも影響しかねない。

 だが家族と暮らせる母港を海外に確保できれば、その心配はなくなる。経費や時間の削減効果も大きい。この構想は、安定的に艦船を海外に展開できる拠点を探す動きにつながっていく。

 「米軍基地の整理統合中も第7艦隊はプレゼンスを維持する」。1971年1月に来日した米軍統合参謀本部議長の海軍大将トーマス・ムーラーは、首相の佐藤栄作との会談のなかで確約した。

 その後、米海軍は横須賀基地の縮小方針を見直す可能性が出てきたことを、国務省に伝える。「予算事情の好転」が理由だった。同時期に、本国の国務省からの公電が、東京の大使館に届いた。「海軍が、6隻の駆逐艦と幕僚を佐世保に配備することを検討している。家族は最大限、日本の地域経済のなかで生活するのが望ましい。続いて、佐世保に空母も必要になる」

 だが大使館は本国に「佐世保での空母の母港化は困難」との結論を返した。空母の乗員は数千人で、数百人程度の駆逐艦とはケタが違う。配備されれば佐世保の住宅は圧倒的に足りない。空母艦載機の地上拠点も必要だ。

 そして大使館側は「最後に、核兵器の難題がある」とも付け加えた。

 「日本人は空母が核兵器を装備していると考えている。日本では非常に大きな政治問題だ。佐世保よりも基地と(市街地から)の距離が相対的に遠い横須賀の方がおそらく、この問題を顕在化させないだろう」

 佐世保が難しいとなれば、次の候補地は横須賀になる。米海軍は作戦部の幹部をトップとする調査団を、日本に送り込んだ。「(横須賀の)空母部隊の母港化の価値に疑いの余地はない」。住宅の余力などを検討した調査団と大使館は、こう結論づける。そして、課題も列挙した。

 「ニクソン・ドクトリンに基づいて米軍の存在を減らし、日本に防衛の責任を担わせる構想は、日ごろ批判的なプレス(報道)にさえも、広く受け入れられている。横須賀の母港化に関する行動はこれまでの構想と整合させなければならない」「母港化は日米が避けたい『事前協議』をもたらす核兵器の持ち込み問題につながる。鍵は、日本政府の前向きな行動だ」

 米軍の配置や装備の「重要な変更」は日本との事前協議の対象とする-。日米安全保障条約6条に基づいた両国間の取り決めの論議を、空母の配備が呼び起こす可能性は、このときに既に認識されていたのだった。

(敬称略)


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