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神奈川高校野球 TOIN復活への16年(1)
平野貴志 「甲子園当たり前」の境目

高校野球 神奈川新聞  2019年03月04日 18:29

選抜大会初戦を完投勝利で飾り、拳を握りしめて喜ぶ桐蔭学園・平野(右から3人目)。これが桐蔭にとって最後の甲子園勝利となっている=2003年3月22日、甲子園
選抜大会初戦を完投勝利で飾り、拳を握りしめて喜ぶ桐蔭学園・平野(右から3人目)。これが桐蔭にとって最後の甲子園勝利となっている=2003年3月22日、甲子園

 雌伏の時を経て、TOINナインが16年ぶりに聖地へ帰ってくる。今月23日に開幕する第91回選抜高校野球大会に出場する桐蔭学園。2003年春以来となる甲子園だ。

 過去11度の甲子園出場を誇る名門は、この間も鈴木大地(ロッテ)や茂木栄五郎(楽天)、斉藤大将(西武)らの大器を擁しながら憧れの聖地には一歩届かず、甲子園で桐蔭と言えば大阪桐蔭という時代が続いてきた。

 なぜこれほどまで苦しんだのか。再登板した片桐健一監督(45)率いるナインが、固く閉ざされた扉をこじ開けることになるまでの長き道。本連載ではTOIN復活への歩みを、元球児たちの証言でたどる。

1998春

 平野少年にとって、桐蔭学園は「甲子園に行くための近道」だった。特定の誰かに憧れていたわけでも、決定的な動機があったわけでもない。ぼんやりと、でも少年ながらの確信として、ここなら夢はかなうと思った。だから苦手な勉強を頑張って、中学受験で桐蔭学園の門をたたいた。松坂大輔を擁する横浜が甲子園を春夏連覇し、ベイスターズが日本一に輝くことになる1998年の春のことだった。

 木本芳雄監督が率い、その後任となる土屋恵三郎(現星槎国際湘南監督)が捕手を務め、甲子園初出場で優勝という快挙を成し遂げた71年の夏から始まった「TOIN」の栄光の歴史。神奈川で4番目に多い通算11度の春夏甲子園出場を誇り、高橋由伸・前巨人監督を筆頭に高木大成(元西武)や鈴木大地(ロッテ)、茂木栄五郎(楽天)に至るまで、いつの時代もプロに逸材を送り込んできた名門だ。

 平野が桐蔭中2年のとき、4季連続を狙った横浜を準決勝で破って、夏の甲子園に当然のように出場した高校野球部がまぶしかった。平野も中学3年の時に大川和正監督率いるチームで軟式野球の全国制覇を果たし、エース候補として高校へ上がった。

 そして2年秋の県大会で準優勝し、関東大会の初戦も突破した。勝てば選抜甲子園が確実の準々決勝、浦和学院(埼玉)戦では「打たれてはいけないところでホームランを打たれた」ものの、5-7の接戦を演じた。関東8強の中から滑り込みで選抜が決まった。これも「常連」の成せるわざだったのかもしれない。

2003センバツ

 右腕は聖地で躍動した。初戦を109球で完投し、福井(福井)に3-2で競り勝った。次戦で鳴門工(徳島)に0-5で完敗したものの、桐蔭に平野ありを見せつけた春となった。

 ただ、主役は横浜だった。成瀬善久(オリックス)と涌井秀章(ロッテ)の左右両輪を擁し、野手にも石川雄洋(横浜DeNA)や荒波翔(元横浜DeNA)ら、後のプロ野球選手をそろえていた。決勝で広陵に大敗したものの、準優勝という成績を残した。

 それでも平野はライバルに差を付けられたとは思っていなかった。最後の夏はその横浜に神奈川大会の準々決勝で負けることになるのだが、その一戦がピークだという意識すらなかった。横浜も、準々決勝も、あくまで通過点-。それを本気で思えてこその名門TOINだった。

 だが結果的に、この春の甲子園から今春まで、桐蔭は丸16年間も聖地から遠ざかることとなる。

2003春

 思えば、伏線のようなものがあった。選抜から帰ってきてすぐの春の県大会、桐蔭のグラウンドで行われた初戦で横須賀総合に足元をすくわれ、夏のシードを逃した。

 その試合、平野は土屋監督から「基本的に投げないから」と言われていた。他の投手に経験を積ませる狙いだった。そして七回を迎え、6-0とリード。中前打で二走がホームへ突っ込んだ。「本来なら三塁ストップの当たりだったのに、暴走でした」。あと1点でコールド勝ちという流れを失い、大逆転負けを喫した。「僕も結局、最後は投げました。でも、逆転された後。確か1球でショートゴロで終わりでしたね」


桐蔭学園・戦績
桐蔭学園・戦績

2003夏

 ノーシードの桐蔭は、夏の神奈川大会で準々決勝まで無失点と順調に勝ち上がった。横浜との一戦は、満員札止めの保土ケ谷球場で延長十二回までもつれる大接戦となった末、2-4で負けた。成瀬を相手に192球で完投した平野が悔やむのは、自らのミスで献上した1点目だった。

 「ランナーが確か二塁にいて、投手強襲の当たりで、一塁は全然間に合わないのに、投げて暴投したんですよ。それで点が入っちゃった」

 もちろん結果論だが、この1点がなければ9イニングで桐蔭が2-1で勝てる試合だった。「普通にいつもやっているプレーができない。負ける時って、こういうものですよね」。ただ当時は、「またすぐに甲子園に行けるはずだ」と信じて疑わなかった。

 だがなぜか、後輩も同じような敗戦を繰り返した。「自分たちから流れを手放すような感じがした。しかもそれが、大事な試合ほどそうなるという…」。平野の卒業後は、4季連続で県大会16強で敗れるなど負の連鎖は断てず、いつしか桐蔭にとって甲子園は当たり前ではなくなっていった。その流れは止まることなく、名将とうたわれた土屋監督の退任へとつながっていくのだった。

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