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【減災新聞】瞬時の判断「山へ登れ」 津波当時の校長回想

減災 神奈川新聞  2019年02月10日 02:26

8年前の津波避難を振り返る菅野さん。今月、横須賀市内で講演し、「判断」と「指示」の大切さを説いた
8年前の津波避難を振り返る菅野さん。今月、横須賀市内で講演し、「判断」と「指示」の大切さを説いた

 「山へ登れ」。津波避難の経験はなかったが、とっさの判断で発した一言が児童92人の命を救った。避難場所でありながら、校舎3階まで浸水した岩手県陸前高田市立気仙小学校。東日本大震災当時の校長、菅野祥一郎さん(68)は、間一髪で逃げ込んだ裏山の足元まで巨大津波が迫った8年前の教訓をかみしめる。「守るのはマニュアルではない。命だ」

 2011年3月11日午後2時46分、菅野さんは学校におらず、付近を流れる気仙川の対岸にいた。「戻らなければ」。すぐに踵(きびす)を返したものの、津波の恐れがあるため通行止めとなった橋を迂回(うかい)しなければならず、学校に着いたのは地震の30分後だった。

 地域の津波訓練で避難場所となっていた同校には、児童や教職員だけでなく、大勢の住民が身を寄せていた。校庭に整列する児童の姿に一瞬、安堵(あんど)もしたが、カーラジオから聞こえた「津波」という言葉に思い直した。「山へ登らなければ」

 もともと学校としての訓練は行っていなかった。しかし、児童らが並んでいた校庭は標高が低い。「何かあったら、あそこに逃げるしかない」。なんとなく頭に描いていた裏山への避難を決断できたのは、日頃から周囲の状況に目を配っていたからに他ならない。

 斜面に丸太の階段が付いた裏山には、3階建ての校舎(高さ約16メートル)とほぼ同じ高さに広場がある。「低学年の児童から避難すると時間がかかり、後がつかえてしまう」と考え、6年生を先頭に急いだ。

 校庭に津波が流れ込んできたのは、最後尾の菅野さんが登り終え、肩で息をしていた時だった。校舎は3階まで浸水し、全壊。「屋上の受水槽の上に逃れた人は大丈夫だったようだが、逃げ遅れて校庭などで巻き込まれた住民も少なくなかった。校舎や体育館への避難では助からなかった」。逃げ込んだ裏山でも、足元の1~2メートル下まで津波が押し寄せてきた。

 自身が小学生だった1960年のチリ地震津波の際は「山側に住んでいたので避難はしなかった」という菅野さん。それでも震災時に避難を決断できたのは、「子どもの命を守るのは教師の責任」との思いがあったからだ。その教訓から、訴える。「過去の津波を経験した年配者はすぐに避難するが、最近はテレビやラジオの情報を確認してからという人が多いようだ。でも、とにかく急いで高台に逃げる。これしかない」

自助のヒント 陸前高田の被害
 東日本大震災による岩手県陸前高田市の死者・行方不明者は計1806人(昨年9月時点、総務省消防庁集計)に上り、同県内で最も多い。沿岸部が広範囲に浸水したほか、津波が気仙川など複数の河川を遡上(そじょう)し、内陸部にも被害が広がった。浸水面積は13平方キロに及び、市立気仙小学校をはじめ、県の津波浸水予測を基に市が避難場所としていた67カ所のうち38カ所が被災。市の検証報告書では「避難が何より重要」「避難所に逃げたら終わりではない」と指摘している。


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