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シャボン玉で夢と感動与え、半世紀 横浜の「杉山兄弟」

話題 神奈川新聞  2019年01月04日 03:48

巨大シャボン玉を披露する「杉山兄弟」の輝行さん(右)と弘之さん=東京都足立区
巨大シャボン玉を披露する「杉山兄弟」の輝行さん(右)と弘之さん=東京都足立区

 半世紀にわたり、シャボン玉で人々に夢と感動を与え続ける兄弟がいる。横浜市戸塚区のシャボン玉アーティスト「杉山兄弟」は世界各地でショーを披露。長年研究を重ね、数々のギネス記録も打ち立てた。兄の杉山弘之さん(71)は「今日まで50年間、虹色に透き通ったシャボン玉の向こうに見える子どもたちの笑顔に支えられている」と振り返り、さらなる高みを目指す。

 弘之さんと弟の輝行さん(69)は、幼少の頃を同区の名瀬町で過ごした。弘之さんのシャボン玉との出会いは幼稚園の頃。当時はプラスチック製のストローがなく、固形せっけんを溶いてシャボン玉液を作り、麦わらをストロー代わりに吹いていた。大きいシャボン玉を作りたいと試行錯誤を重ね、太めのネギを使うと、大きなシャボン玉ができることを発見。「目立ちたいと小学4年生の時に理科室で吹いたら、『においが臭い』と先生に怒られた」と懐かしむ。

 大学時代には個人的にシャボン玉を研究。卒業後は自動車販売会社に就職したが、シャボン玉への情熱は静かに燃え続けていた。販売会への集客方法を考える中で、シャボン玉に着目。呼び込みに使ったところ、次々と家族連れが販売店を訪れ、飛ぶように車が売れた。


シャボン玉を吹く「杉山兄弟」の輝行さん(右)と弘之さん=東京都足立区
シャボン玉を吹く「杉山兄弟」の輝行さん(右)と弘之さん=東京都足立区

 「車を持つことでお父さんは充実感が得られる。お母さんや子どももいろいろな所へ連れて行ってもらえる。みんなが幸せになる。よし、自分の一生は世の中に感動を与えることをしよう」と一念発起。3年半務めた会社を辞め、アルバイトをしていた輝行さんとともにシャボン玉ショー一本で生計を立てることを決めた。

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 裸一貫で始めたものの、当初は泣かず飛ばずだった。遊園地やデパートに売り込んでも「何を売りに来たんだ」「英国王室も買い物に来るような百貨店に、ガリ版で作ったような企画書なんて持って来られても困る」と門前払い。会社員を辞めたことを悔いたこともあったが、布団に入り「ここで辞めたら今後何でもやめてしまう。今夜は寝るけど、明日は頑張ろう」と眠りについた。

 「テレビへの出演が効果がある」と考え、参加者が変わった特技を披露する番組に、20代の後半ごろに出演。露出が増えたことでデパートの幹部から声が掛かり、仕事が増えていったという。

 苦労を重ねてつかんでいった仕事だったが、時代の波に流され、決して平たんな道のりではなかった。

 昭和末期の1988年。昭和天皇の容態悪化が伝えられると、世の中は一気に「自粛ムード」。華やかさが売りのショーは次々とキャンセルになった。外資系企業が母体の東京ディズニーランドから声が掛かり、何とか窮状をしのいだ。

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 首都圏を中心に幼稚園や保育園、小学校などでショーを重ね、今では大人から子どもまで広く認知され、多くのテレビ番組に出演を果たすまでになった。「毎分100万発」「直径4・2メートル」などのギネス記録をたたき出し、米国や韓国、マレーシアなどでも披露。その妙技は世界もうならせる。

 一度ショーを開くと「来年も来てほしい」と要望が入り、2年先までスケジュールが入っている状況だ。親子2代で観賞したというファンも少なくはない。


次々にシャボン玉を放つ「杉山兄弟」の弘之さん(左)と輝行さん=東京都足立区
次々にシャボン玉を放つ「杉山兄弟」の弘之さん(左)と輝行さん=東京都足立区

 輝行さんは「子どもからお年寄りまでシャボン玉をみて笑顔にならない人はいない。みんなに喜んでもらえたから50年続けられたのだと思う」と振り返る。

 兄弟は年齢を重ね、ショーに出掛けた老人ホームの入所者とほぼ同年代になってきた。それでも「『おじさん、明日も来てね』と子どもから声が掛かる限り、楽しみにしてくれる人がいる限り、ショーを続けていきたい」。

 平成という一つの時代を終えようとしている今、兄弟の放つシャボン玉は、虹色にきらめく子どもたちの笑顔を乗せながら平成の次の時代も輝き続ける。


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