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普天間問題抱える沖縄の怒り、40年前の「コザ騒動」に重ね合わせ/横浜

社会 神奈川新聞  2010年08月15日 11:32

時折笑顔を交えながら沖縄での苦労話を語る大黒裕子さん=横浜市中区の「守礼の邦」
時折笑顔を交えながら沖縄での苦労話を語る大黒裕子さん=横浜市中区の「守礼の邦」

太平洋戦争末期に壮絶な地上戦の舞台となった沖縄。折しも米軍普天間飛行場の移設問題をめぐり、再び「反基地」のうねりが巻き起こっている。終戦から65年―。いまだ「戦後」の苦悩を強いられる沖縄の現状を、住民の不満が爆発した40年前の「コザ騒動」と重ね合わせる女性がいる。

夜のとばりが下りると、琉球赤瓦の屋根が印象的な小さな店内は笑い声で包まれる。横浜の歓楽街・野毛にある琉球居酒屋「守礼(しゅれい)の邦(くに)」。客を出迎えるのは、夫とともに切り盛りをする大黒裕子さん(63)の屈託のない笑顔だ。

「極東最大」とうたわれる米空軍嘉手納基地がある沖縄県コザ市(現沖縄市)出身。兄は沖縄戦下、山中で産声を上げた。自身は終戦2年後に生まれた「戦後世代」だが、地上戦のつめ跡、そして「銃剣とブルドーザー」で駐留した米軍に、生活は翻弄(ほんろう)され続けた。

「プリーズ・バイ・ガム」。「貧乏のどん底」だった。6歳のころから米兵相手にガムを売って歩いた。「青い目の人から『ハウ・マッチ』と聞かれたら、『テン・セント』と答えなさいと言われていたの」。10年寝たきりだった母は18歳の時、他界。7人きょうだいの家計を支え続けた。

終わったはずの「戦争」は、沖縄では変わらず隣り合わせだった。泥沼化するベトナム戦争。フェンスの向こうには壊れた戦車が並んだ。戦死した米兵に、死に化粧を施す仕事に就いた知人もいた。何より基地の外では戦時下のストレスからか、米兵による事件事故が相次いだ。

そんな中で起きたのが、コザ騒動だった。

23歳だった大黒さんは、発端となった若者20~30人のうちの一人だったという。大黒さんによると、地元青年団のメンバーが路上で、米軍憲兵とトラブルとなったことをきっかけに沖縄の怒りが爆発。群衆は膨れ上がり米軍車両をひっくり返しては火を放った。

大黒さんはスクラムを組み叫び続けた。「ヤンキー・ゴー・ホーム」。やっと自由になれた気がした。白々夜が明けると、着ていた黄色い手編みのセーターは真っ黒になっていた。

1972年の本土復帰直前、パスポートを手に、本土に渡った大黒さん。あの騒動から40年。「悪いことをしたかもしれない。だがそれまで優しく、言いなりだった沖縄にも民衆パワーがあることを米国人たちも分かったと思う」と振り返る。

沖縄には変わらず基地があり続け、そして再び、普天間問題でふるさとの海はしぶきを上げる。

「とってもとっても不公平だよ。47都道府県あるのに、沖縄ばかりに集中している。それでまた辺野古(沖縄県名護市)の海を埋め立てるのか。沖縄の怒りを表さないといけない」

苦しみ、怒りを乗り越えたわけではない。「人間っていうのは、苦しみ泣いて怒ったら、あとは笑うしかないわけさ」。不戦の誓い、沖縄が抱える不条理を抱え、だから今日も笑顔で店に立つ。

◆コザ騒動 米軍統治下の1970年12月20日未明、沖縄県コザ市で住民らが米軍人や軍属の車両などに放火した事件。女性をはねて死亡させた米兵に米軍が無罪判決を出したことが発端。米軍支配に不満を持っていた住民の感情が爆発、群衆は約5千人に上ったとされる。米軍側も威嚇発砲し、騒ぎは朝まで続いた。本土復帰を目前にした騒動は日米両政府にも衝撃を与えた。

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