1. ホーム
  2. 社会
  3. つなぐ横浜大空襲(1) 戦禍伝承、若者にこそ

体験者・打木松吾さん(85)
つなぐ横浜大空襲(1) 戦禍伝承、若者にこそ

社会 神奈川新聞  2017年05月29日 09:24

空襲当日に持っていた学習帳を片手に語る打木松吾さん=横須賀市
空襲当日に持っていた学習帳を片手に語る打木松吾さん=横須賀市

 好天の朝は闇に包まれていた。街を焼き尽くす黒い煙が厚い雲のように空を覆う。13歳で横浜大空襲に遭った打木松吾さん(85)=横須賀市=は、住み慣れた街並みが焼け野原に一変した光景が忘れられない。焼夷(しょうい)弾が降り注ぐ恐怖の中で逃げ惑い、あまたの焼死体も目撃した-。

 1945年5月29日、いつもと変わらぬ朝は男性教諭の一言で暗転した。横浜市・大口の中学校に登校した打木さんが友人と雑談していた午前8時ごろ、教諭は教室に入るなり、「空襲がありそうだ。自宅に帰るように」。生徒は一目散に駆け出し、打木さんも市営電車に飛び乗った。

 数百機もの米軍機が迫る。久保山の自宅最寄り駅に着いたところで「これ以上は危険だ」と、乗客は全員降ろされた。打木さんは自宅に戻らず、高台に駆け上った。「B29爆撃機を見てやろう。1機ぐらいは攻撃を受けて、墜落するかもしれない」との好奇心からだった。

 かなたにあった機影が近づくと、その巨体に驚いた。機体は太陽に照らされてピカピカと光り輝き、操縦席には米兵の姿がはっきりと見えた。陸軍が高射砲をどれほど撃とうとも届かない。白い煙が「パッ、パッ」と空に舞うだけで、悠然と飛行を続けた。

 「危ないから防空壕(ごう)に入りなさい」。近くの男性に声を掛けられ、打木さんはわれに返った。崖を掘った壕内は既にすし詰め状態。息苦しかったが、「死ぬよりはましだ」と我慢した。

 20分ほどすると、近くで火の手が上がり、壕を飛び出し驚いた。見下ろす街は夜のように暗かった。焼けた家々から黒煙が立ち上る。「腰が抜けたようになってしまった」。死を覚悟した。

 両親との3人家族。自宅まで10分ほど走り続け、母親を見つけてほっとしたのもつかの間、付近でも焼夷弾が雨のように降り始めた。悪魔の音-。空気を切り裂く「ザーッ」という響きを打木さんはそう表現する。

 近隣住民の安否確認に奔走する母親から先に逃げるよう促され、避難する人々の波に加わった。押し合いへし合いで、倒れた人を助ける余裕さえない。打木さんも心の中で謝りながら、お年寄りの女性を靴で踏み付けて逃げた。「人を踏んだことなんてないでしょう。ムニャってするんですよ」。感触と女性の発した悲鳴は、今も鮮明に残る。

 米軍機が去り、自宅に向かうと、母親とはその帰り道で、勤務先から戻ってきた父親とは自宅前で再会した。大きなけがもなく無事を喜んだが、自宅は全焼。うずたかく積もった灰を前に立ち尽くした。燃料用に積み重ねていた練炭だけが「ゴウゴウ」と炎を上げ、ドラム缶に入った水が煮えたぎる。家を失い、悲しみがこみ上げた。

 見渡せば「焼死体が累々と道の脇に転がっていた」。異様なにおいが立ち込め、中には乳児を背負った遺体もあった。多くの友人を失い、6月の学校再開後、出席の確認時には10人近くの名前が欠けていた。

 戦前を振り返り、「戦争のない良い時代だった」と打木さん。戦火をくぐり抜け、戦後の平和を知るからこそ、「あんな戦争はすべきでなかった」との思いが募る。改憲に前のめりな安倍政権の動きにも、危機感が強まるばかりだ。

 打木さんは力を込める。「戦争を繰り返さないためには、平和な社会になっても知るべきことがある。若者にこそ伝えたい。平和のありがたさを感じてほしい」。無差別爆撃を体験した者としての切なる願いだ。

 米軍による無差別爆撃で死者8千人以上ともいわれる横浜大空襲から29日で72年となる。体験者の高齢化が進む中、次世代へと「つなぐ」人々を追った。


シェアする