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明治10年殉職の祝井巡査、無縁仏に ひ孫が調査続ける/神奈川

社会 神奈川新聞  2013年04月10日 22:48

曽祖父殉職にかかわる謎の解明を続けている祝井文治さん=東京都国分寺市
曽祖父殉職にかかわる謎の解明を続けている祝井文治さん=東京都国分寺市

 神奈川県警察で事件中の初の殉職者となり、県警や事件の被害者の子孫らによって手厚い慰霊が続けられている祝井盛武巡査(1849~77年)。ところが、祝井巡査は無縁仏とされ、子孫が墓碑や慰霊の詳細を知ったのは2005年のことだったという。ひ孫の医師祝井文治さん(65)=東京都=は県警や関係者に感謝しながら、130年の空白を埋めようと悲劇の解明を続けている。

 祝井巡査は元薩摩藩士。妻と長男を鹿児島に残し伊勢原分署に勤務していた。

 明治10(1877)年、伊勢原の旅館「紙屋」で起きた立てこもり事件で殉職。警察は鹿児島の遺族に連絡を取ろうとしたができず無縁仏になったという。

 同郷ということで教善寺(平塚市)の住職が遺体を引き取り墓碑を建立。紙屋の鵜川家も事件から約40年後に慰霊碑を建てた。県警察学校(横浜市栄区)にある招魂碑と合わせ3カ所で慰霊が続いている。

 一方の祝井家は、残された長男の代に鹿児島を離れ、台湾、青森、東京と転居した。青森生まれの文治さんは「曽祖父は神奈川の警察官で殉職したという話は父から聞いていました」。

 不思議なことに文治さんは1979年に約4カ月、東海大病院(伊勢原市)に勤務。81年から約1年間は平塚市民病院に勤務し、教善寺近くに住んだ。だが、教善寺の墓碑も鵜川家の慰霊碑も知らないままだったという。

 ところが2005年、文治さんの次女がインターネットで「祝井」を検索し、鵜川家による慰霊の記事を見つけた。「100年余にわたり丁重に弔いを続けてきたご子孫の姿勢に感動し心が震えた」と文治さん。鵜川家、そして教善寺を訪ね、これまでの慰霊に感謝の言葉を繰り返した。その後、国会図書館や県警、鹿児島で資料を調べ、事件と祝井巡査の解明に取り組んだ。08年には著書「百三十の歳月を経て」も出版した。

 謎は「なぜ連絡が取れなかったのか」。文治さんは「身元ははっきりしている。連絡は取れていたはず」と考える。殉職は西南戦争終了の2カ月後。祝井家は西郷軍に心を寄せていた可能性が高いという。不安定な情勢下で「一家そろって身を隠さなければならない事情があったのでは」。

 また、跡継ぎとして養子に迎えた祝井巡査が上京したうえ、“敵側”の新政府の役人だったことに「祝井家には複雑な思いや事情があったと考えられる」。

 結果的に連絡に応じることなく、墓参りもできないまま歳月が流れた。「盛武には心の底からわびなければならない」と文治さん。

 祝井巡査を殺害し4日後に逮捕された男の裁判記録が見つかっていないなど、謎はまだ多く、文治さんは資料の発掘を続けている。「鵜川家、教善寺、県警には本当に感謝するばかりです。盛武そして祖父、父も喜んでいると思います」と話している。


平塚署員らの寄付で3月に改修された祝井盛武巡査の墓碑=平塚市平塚3丁目の教善寺
平塚署員らの寄付で3月に改修された祝井盛武巡査の墓碑=平塚市平塚3丁目の教善寺

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