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37年越しの甲子園
「タテジマ」東海大相模・田倉雅雄の半世紀(中)教え子 

高校野球 神奈川新聞  2017年03月18日 06:06

腰の激痛に閉会式途中で退場する門馬(中央)と支える田倉(右)=1987年7月30日、横浜スタジアム
腰の激痛に閉会式途中で退場する門馬(中央)と支える田倉(右)=1987年7月30日、横浜スタジアム

 【運動部=真野 太樹】今年1月27日の午後、東海大相模野球部部長の田倉雅雄の携帯電話が鳴った。1980年夏の神奈川大会を戦った外野手、高木裕一からだった。「先生、センバツ出場が決まりました」。岐阜・多治見の監督として今春の選抜大会の21世紀枠に選出されたのだ。

 故郷の多治見市役所に勤務しながら、監督を兼務して19年目。念願を果たした高木は今月19日の開幕を前に、その思いをこう語った。

 「田倉先生が退職される前に、何とか甲子園という気持ちがずっとありました。当時は社会問題になり、先生も本当に苦しまれた。あのことは、これで終わりにしましょうよという思いです」

 小学6年の時にタテジマ姿の原辰徳に憧れ、その夢を追って岐阜から越境入学した高木。37年前の出場辞退は「18歳にとっては衝撃的だった」というが、監督への信頼が失われることはなかった。「田倉先生は監督というより熱い兄貴。悔しさはありましたが、先生を恨む気持ちは誰一人、不思議とありませんでした。辞退の後、3年生全員で先生とバスに乗って、真鶴の海岸まで遊びに行ったんですよ」

就任要請1998



 とはいえ自身も大学卒業後、高校野球への複雑な感情が消えず、野球とは縁遠い人生を送っていたという。98年、地元の県立進学校から届いた監督就任の要請も断ろうかと逡(しゅん)巡(じゅん)していた。「ノックを打った瞬間、硬球の感触が戻ってきて、封印してきたものが解かれた気がしたんです」

 やるからには、目指すものは甲子園だった。田倉に願い出て東海大相模との合宿や練習試合を組んでもらった。ユニホームも母校と同じタテジマに変え、恩師と同じ気持ちで戦ってきた。今年のチームも昨秋、東海大相模のグラウンドで鍛えてもらった。

 「先生と飲む機会があると『俺があんなことをしなきゃ…』と言われるので、ずっと先生の心にあることは分かっていました。同期で高校野球に関わっているのは自分だけだから、本当にいい恩返しになりました」

 高木の世代は4番だった長谷川国利(巨人査定室長)の長男将也が甲子園出場を果たして現在はコーチを務め、控え投手だった菅野隆志の長男智之(巨人)が日本を代表する投手となった。ほかにも複数の選手が親子でタテジマに袖を通すなど母校との結びつきは強い。

 多治見は大会第2日の20日、兵庫・報徳学園と1回戦を戦う。37年越しでタテジマが甲子園で輝く時、田倉と高木たちの世代にとって、あの事件がようやく終わりを告げる。

出場直訴1987



 1981年夏、田倉は神奈川大会の期間中に謹慎を終えた。東海大から監督に戻ってきた原貢の下で部長を務め、83年秋に監督に復帰する。

 ただ、甲子園は遠かった。86年は春の県大会で優勝するが、夏は準々決勝で横浜商(Y校)に敗れた。原からは「春に勝っても何にもならないじゃないか」と、なかなか認めてもらえなかった。

 春に準優勝した87年夏には、大きなチャンスを迎えた。二塁を守る主将の門馬敬治を中心に、田倉が「自分たちでいろいろ考えて、やれるいいチーム」と感じた世代は勝ち上がっていく。決勝の相手はY校だった。

 門馬は大会中、腰の痛みに悩まされていた。準決勝の後、ドクターストップもかかったが、選手生命に関わる重症だとは知る由もなかった。田倉も決勝直前まで打率4割超の3番打者の起用を迷い、スタメン表には別の名前を書いていた。チームバスの中で、門馬は「出られます」と直訴。痛み止めを打ってプレーしたものの六回で力尽き、試合にも敗れた。

 30年がたった今も、門馬はあの判断を悔いていた。「主将の重責を果たしたなんて新聞に書いてもらいましたがきれい事。あれはわがままだった。先生にもチームメートにも取り返しがつかないことを僕はした。一生悔いが残るひと言です」

 だが、この結末が東海大相模の歴史を大きく変えた。田倉が原貢から学んだタテジマの精神を、大学1年で椎間板ヘルニアが悪化し、選手生命を断たれた門馬が受け継いでいくことになる。

再出発1988



 翌88年も春を制しながら、夏は4回戦敗退。秋は決勝でまたもY校に敗れ、関東大会準々決勝でサヨナラ負け。田倉は監督を退き、東海大相模中の野球部監督として再出発することになった。

 この異動も、一つの転機となった。高校生なら言わなくても分かることが、野球を知らない中学生には分かってもらえない。子どもたちの心の中を想像し、かみ砕いて分かりやすく教えるには言葉の力が必要だった。

 再び高校の部長に戻ったのは95年春。92年選抜で準優勝した監督・村中秀人(東海大甲府監督)とコンビを組んだ。そして、横浜高の春夏連覇に県内が沸いた98年が終わるころ、恩師の原貢からまた運命の言葉を聞くことになる。


念願の甲子園出場を果たした多治見高の高木(右)と田倉=2016年11月5日、東海大相模高
念願の甲子園出場を果たした多治見高の高木(右)と田倉=2016年11月5日、東海大相模高

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