乙女たちの戦争~東部軍女子通信隊(下) 「最後の一兵」慰霊続け|カナロコ|神奈川新聞ニュース

乙女たちの戦争~東部軍女子通信隊(下) 「最後の一兵」慰霊続け

 けたたましく鳴るベルと、各地の監視所から次々に入る敵機情報を復唱する女子通信隊員らの声で、窓のない室内は騒然となった-。1944年暮れ以降、米軍の爆撃機B29による東京空襲が激しさを増していく。

 元隊員だった外間加津子さん(90)=川崎市麻生区南黒川=は、皇居近くにあった陸軍東部軍司令部内の緊迫した様子を、今でも鮮明に覚えている。

 「数機や数十機ではなく、数百機で飛来するから監視所からの情報も大混乱でした。飛行方向なんて分からず、途中で敵機情報が消えることもあって、もうメチャクチャ。上官から『ちゃんと確認しろ』と怒鳴られても、情報台の入力が全く追いつかなかった」

 敵機の姿が消えるまで、極度の緊張状態が続いた。「勤務の6時間はトイレにもいけず、水1杯も飲めませんでした」

 米軍は1945年3月から、8千メートル以上の高度から軍事施設や工場などを狙う従来の作戦を一変させ、2千メートル程度の低空から大編隊で侵入し、夜間に無差別爆撃を行うようになった。低空での侵入は高度で入るより、日本側のレーダーに探知されにくかったという。

 日本の防空技術の脆弱(ぜいじゃく)さは明らかだった。懸命に情報を取り次いだ隊員の奮闘もむなしく、空襲の被害は広がるばかりだった。「もう日本は勝つわけがない」。外間さんもいつしか、そう思うようになっていた。

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 「私自身は猛火を逃げ惑うような怖い思いをしたことがないんです」。外間さんはこう恐縮する。だがそれは、東京や神奈川の町に焼夷(しょうい)弾が降り注いだ時間帯には、司令部内で任務に忙殺されていたからだ。疲れ切った勤務明けに司令部の建物の外に出て、焼け野原となった町で見た凄惨(せいさん)な光景は、それでも脳裏に刻まれている。

 「麻布の家に帰る途中に亡くなっている方々の横を歩いた。抱き合ったまま焼かれてしまった親子らしき2人もいた。全身真っ黒で炭の人形のようだった。でも当時は悲しいとか、そんな気持ちはなかった気がします。感情がまひしていたのかもしれません」

 地方出身の隊員は娘を心配する親が引き取りに来て、隊の出入りが激しくなっていた。3600人以上が犠牲となった45年5月25日深夜の「山の手大空襲」では赤坂付近にあった1950部隊本部も燃え、多くの隊員らが命を落とした。

 その3カ月後、外間さんは玉音放送で敗戦を知った。仲間の隊員と皇居前の宮城広場に走り、泣いた。「戦争に負けたんだという寂しさが込み上げてきました」

 だが、悲しみに浸る暇はなかった。「米軍が来る前に男の格好をして逃げろ」と言われ、追われるように叔父のいる山梨県に向かった。外間さんの任務は終戦の混乱の中で幕を閉じた。...

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