神奈川新聞と戦争(56)1942年 「翼賛」が報道の使命|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(56)1942年 「翼賛」が報道の使命

樋口宅三郎が「新聞報導の限界」と記した1942年4月1日付の本紙。上には大政翼賛会の委員改選の記事が

 本土初空襲の翌日、1942年4月19日に掲載されたコラム「時感」。神奈川新聞社の初代社長、樋口宅三郎が「神経戦の手に乗らず」と題して記した。

 空襲時、横須賀の駅で列車を待っていたという樋口は、周囲の人々の冷静さに感嘆した。「誰一人として、あはて、ふためくものがなく、喚声を発するものがなかつた。多くの女性が混つてゐたのにこの人々も非常に沈着であつた。顔色一つ変へるものすらなかつた。頼もしい限りである」

 だがコラムの主題はそこではない。「だがこゝにわれわれの戒心すべき問題がある」と前置きし、次のように述べたのだ。

 「目撃者や被害情況を耳にしたものが、これを不用意に話題に上すことだ」。いくら冷静に慌てず行動しても、多少の「精神的な倒錯」がある。そんな状態で敵機の形や色などを「寸分誤るところなく印象し得るものは稀(まれ)」であって、そういう目撃談が伝わるほどに「尾鰭(おひれ)がつき勝(がち)」だ-。

 樋口は、そういう不正確な情報の拡散こそ「敵の狙ふ神経戦」に資する、と断言した。一方で新聞は、読者が最も知りたい正確な情報を載せることができなかった。樋口は「一機や二機飛んで来た処で爆撃の被害はたかの知れたものだ」と書くばかりだった。

 言論統制下、新聞は既に報道の役目を果たせないでいた。18日前、4月1日付の同じ「時感」欄で、樋口もそれを認めた。同月30日には、東条英機政権下の総選挙が迫っていた。大政翼賛会による「翼賛政治体制協議会」が、政権に都合の良い候補者を推薦する「翼賛選挙」だ。あからさまな選挙干渉だった。

 樋口は、その協議会の県支部で推薦委員を務めていた。「新聞報導(ほうどう)の限界」と題した「時感」で、樋口は「委員会の申合せは本部の決定まで絶対秘密」「筆者に言明する自由がない」と多くを語らなかった。

 文末には「新聞人に課せられた使命は言はずとも明らかであると思ふ」と記した。「使命」とは、真実の報道ではない。「清新強力なる翼賛議会の建設のため」だ、と樋口は同コラムで断言した。

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