
スタジアムに吸い込まれていく人たちを見るのが好きだ。若いファンもうれしい。家族連れもうれしい。
ただ、67歳を迎えた元社長には、こんな光景が格別だ。
「私と同年代の方が一人でユニホームを着てリュックを背負って歩いていく。同じようなご婦人も大勢いる。社長就任当初の2001年を考えれば、隔世の感というより別世界です」
記してきた20年は、地域との距離を縮める歩みでもあった。「みんなのクラブ」であるために市民、自治体、企業と手を取り、街づくりに寄与しようと考えた。「ただ当初、市からは『営利団体とは連携ができない』と言われました」
行動で示すしかなかった。地域密着、社会貢献、地元活性化。「そして市も理解してくれた。今や国内中で川崎市とフロンターレの関係は一番だと自負している」。等々力陸上競技場の計画的な改築など、その良好な関係性は有形無形、地域に還元されている。
15年にわたって社長を任された実直な熱血漢はでも、ワンマンではなかった。例えば川崎名物とも言える、飛び抜けたホームゲームイベント。組織は大きくなれば保守的になるのが普通だが、その意外性はとどまることをしらない。
「お客さまの中心は30~40代。彼らの琴線に触れるものは、同世代のスタッフがつくるべきだと。私のような年寄りの感覚では面白いものはつくれないし、その常識や感覚でアイデアを判断するべきではないと思った」
理由はもう一つ。
「リーグ後発であり、市民から関心の薄かったフロンターレに恐いものは何もなかった。だから昔から、基本的に『何でもやってみろ』なんです」
そして何よりも。クラブのトップとして大切な、夢を語るということを継続した。そのための道筋を示すことも、あわせて。だから一線を退いた今も、夢ならいくらでも語れる。
「川崎、川崎市民のために貢献していくという軸を忘れないこと。30万人の後援会員を抱えるビッグクラブになってほしいし、優勝も何回もしてほしい。ゲームは常に満員で、シーズンチケットは毎年完売してほしい。でもクラブには浮き沈みがある。それでもいつも、おらが村にはフロンターレがあると胸を張って誇ってもらえるクラブになってほしい。意識しなくても常にそばにあるもの。そんな存在になってほしい」
まもなく21年目が始まる。変わらない一生懸命の一歩を、また踏み出す。
=おわり