渡辺元智監督・山下泰裕氏・・・県内からも名将しのぶ声 原貢さん死去|カナロコ|神奈川新聞ニュース

スポーツ総合

渡辺元智監督・山下泰裕氏・・・県内からも名将しのぶ声 原貢さん死去

  • 公開:2014/06/02 00:30 更新:2015/08/03 15:41
  • 神奈川新聞

29日夜、元東海大相模高野球部監督の原貢さんが心不全のため79歳で亡くなった。豪快な攻撃野球で神奈川に一時代を築いた名将の訃報に、県内で覇権を争った横浜高の渡辺元智監督(69)やかつての教え子たちは往時をしのんだ。

□横浜高・渡辺監督

「一世を風靡したというか、一時代をつくった人。大きな壁だった。打倒原、打倒相模と追いかけたことで、今がある」。渡辺監督は原さんの死をそう悼む。

好敵手との熾烈な争いは1969年夏の神奈川大会決勝、0-2で苦杯をなめたところから始まった。以来、原さんが77年春に東海大監督に就くまで公式戦で9度顔を合わせたが、2勝7敗。横浜高の行く手に最後まで立ちふさがった。「意識しすぎたとも思うがオーラがあった。詰め寄ったと思っても厚い壁に阻まれた」という。

60年代は法政二高が築いた緻密な野球が全盛だった。右打ちや犠打、エンドランを多用する戦術に風穴をあけた原さんの攻撃野球の鮮やかさは、今も記憶に残る。「神奈川の野球を変えると言ってきたが、本当に変えてしまった。それまでは細かい野球が主流だったが、豪快な野球に変わった」

それは横浜高の野球にも影響を与えた。「相模以上に豪快にいかないと勝てないと思って鍛えた。永川で選抜(大会)を制した73年もそうした野球。それでも相模の時代は続いた」。互いに競い合った日々を懐かしむ。

一緒にゴルフを回り、酒席も共にした。グラウンドを離れても接点は多かった。「野球の話はほとんどしなかった。見て盗むというのかな。アドバイスを受けることもなかった」。ただ、敵将の姿は指導者としての指針の一つとなった。「何事にも動じない、信念の人だった。人間力があった」

「『神奈川を制する者は全国を制す』という言葉はまさに原さんの時代に生まれた言葉」。追い付き、追い越せと執念を燃やしてきた渡辺監督は少し寂しげな顔を浮かべて言う。「今一度、成し遂げないといけない。そうしたら、原さんも天国で喜んでくれるんじゃないかな」

○心から尊敬していた

山下泰裕県体育協会会長(東海大副学長)の話 私が東海大相模高校に転校してきたときから、柔道と野球、同じスポーツということでかわいがっていただき、心から尊敬していた。口ばかりの人を嫌い、現場で実績を挙げる人を評価した。ご自身も常に現場主義で、私とは変な言い方だがウマが合った。東海大相模高、東海大野球部を黄金時代に導いた方。われわれも、もっと頑張っていきたい。

◇「OBすべての原点」

「野球に対して厳しい人だったが、温かさもあった。メリハリのある指導で父のような存在だった」。そう話すのは、息子である巨人の原辰徳監督と東海大相模高時代の同期で、3年時に主将を務めた山口宏さん(55)。「原先生の野球は最後まで諦めない野球。すべてのOBにとって原点となっている」と恩師をしのんだ。

一方、県内のライバル校の指導者は「原野球」の打倒に燃え、力をつけてきた。同高が初の全国優勝を飾った翌1971年に、同じく初出場で全国制覇を成し遂げた桐蔭学園高の当時の監督、木本芳雄さん(67)もその一人だ。

「われわれもできると自信をもって(甲子園に)臨めた面もある。切磋琢磨していくなかで着実に強くなった」と木本さん。「以前に横浜の渡辺監督と3人で集まろうという話をしていたんだけど」と残念がった。

原さんの思いは引き継がれている。

現在の東海大相模高で指揮を振るうのは、東海大時代の教え子で、同高OBの門馬敬治監督(44)。2010年夏の甲子園で、1970年以来の進出となった夏の決勝をスタンドで見守った原さんは「この1、2年で伸びた。人のアドバイスを素直に受け入れるようになった」と目を細めていた。

1日、同高グラウンドで練習試合の指揮を執った門馬監督は、恩師の悲報に無念の表情を浮かべながらも、変わらず指導に熱を込めていた。

【神奈川新聞】


PR