凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<9>往復ビンタと戦友愛|カナロコ|神奈川新聞ニュース

凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<9>往復ビンタと戦友愛

少年飛行兵に入隊したころ撮影した関谷義一の肖像写真

数十人が寝起きをともにする内務班での日常は、身も心も軍隊に同化させていく過程だった。「きつい。もう毎日のように非常呼集がありましたからね」

陸軍少年飛行兵として兵庫や熊本で訓練を受けた関谷義一(87)=長野県長和町=は振り返る。非常呼集とは、敵の夜襲を想定し、夜中や未明にたたき起こされる訓練。素早く毛布を畳み、軍装を整え集結する。畳み方や着方が雑ならばやり直しだった。

「いつもビリ。僕と、あと2人は要領は悪いし動作は鈍いしね。いつも人の何倍も苦労していましたよ」

遅ければ罰がある。軍隊では私的制裁が禁じられ、人を殴ってはならなかった。だが、それは建前にすぎなかった。関谷は言う。「往復ビンタもね、上官が部下を殴るのではなく、兵を2列に並べて互いに殴らせた。そうすれば、切磋琢磨(せっさたくま)したことになる。うまいことを考えましたよ」

殴られるだけならば、まだましだったという。「捧(ささ)げ銃(つつ)」の姿勢でじっとしているよう命ぜられたことが、関谷にはある。数キロの重さのある銃を、体の前で垂直に捧げ持つ敬礼の一種だ。次第に腕が震えるが、少しでも手を下ろすと竹刀で打たれる。「長ければ2時間…」

ビンタも「捧げ銃」も連帯責任だった。そして、それを正当化する論理として強調されたのが「戦友愛」だった。「お前の骨を拾うのは戦友しかいないんだ、と。それを朝から晩まで教育されるわけです」

とはいえ、雪深い村で家族や親類と助け合って育った関谷にとって、そういう考えを単に理不尽な「連帯責任」と割り切れるものでもなかった。「一人だけ早くったって、隣の人がビリならば内務班みんなが損をする。戦友同士が助け合い競い合って、結局は国が良くなっていくわけですから」

助け合う。その倫理観が、後にシベリアで自らを救うことになるとは-。

◇吹き荒れた私的制裁 関谷が「捧げ銃」をさせられたのが陸軍の制式銃「三八式歩兵銃」だとすれば、重さ約4キロ。それを両手で持ち、体の前に伸ばしていると腕が震え、下がる。すると、またビンタが飛ぶ-。

陸軍では新兵に対する古兵の私的制裁、暴力が吹き荒れた。特に、日常生活を送る内務班で著しかったといわれる。内務班は古兵と新兵が交じった40人ほどの集まり。戦闘編成では、それが「小隊」に移行する。

古兵は手のひらやげんこつだけでなく、革のスリッパやベルト、靴の底などで殴り、教育だと称した。時には新兵同士を向き合わせ、互いに殴らせた。その実態は野間宏「真空地帯」、大西巨人「神聖喜劇」などの小説にも詳しい。

暴力は当然、海軍にもあった。映画監督の故・新藤兼人は1944年4月に召集され、呉海兵団に入った。なぜこれほど殴るのか、と思うほど毎晩殴られた。「わたしたちはアメリカと戦争するのではなく、帝国海軍と戦っているのだった」と自著にある。

海軍特別幹部練習生だった作家の故・城山三郎が、記者に吐き捨てるように言った言葉が忘れられない。「あこがれの帝国海軍で牛馬以下に扱われた」

【神奈川新聞】

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