【ひとすじ】生の実感を追い求め |カナロコ|神奈川新聞ニュース

【ひとすじ】生の実感を追い求め 

ラフティング監督・池田拓也

チームのメンバーと対話しながら技術的な検討を重ねる池田監督(左) =平塚市馬入の相模川河口付近

目を見開き、迫る危機に対峙する。頼みは己と仲間の両の腕。勇気と連帯、自然への畏敬と征服欲、力と技巧の総動員。波立つ水面にパドルを突き立て、かじを切ってゆく。

あなたはなぜ、レースラフティングに魅せられ、危険な瀬に自ら漕ぎいでるのか-。

そう問われれば、それが生きるということだからだと池田拓也(35)=平塚市=は答える。11年の競技者人生で越えてきた無数の難所とのみ込まれた急流、征服と屈服、歓喜と失意の交錯は生の実感以外の何物でもなかった。

王座奪還を逃したブラジル大会から2週間後の2日。平塚市馬入の相模川河口、パドルを手にした男たちの荒い息づかいが岸辺まで届く。右へ左へ蛇行する「チーム・テイケイ」のゴム製のラフトボート。池田は護岸のふちに立ち、鋭い視線でメンバーの挙動を追っていた。

チーム存続が決まったのは、その3日前だった。捲土重来を期し、選手兼監督として挑んだものの4位に終わったブラジル大会の結果を帰国後、会社に報告した。現役から退き、監督に専念したい考えを伝え、新体制について掛け合った。

そして下った裁定。池田の指揮の下、選手たちは世界一を目指し、再び走りだした。

午前8時に集まり午後までの5時間余を水上でのトレーニングに費やす。週に2、3回はジムで筋力トレーニングにも汗を流す。間もなく、冬場の恒例「フィジカル・ウイーク(肉体週間)」なるトレーニングも待ち受ける。5日間で100キロ漕ぎ、100キロ走ることを課す。1日の移動距離は水陸合計で40キロ。パイオニアとしての技量と矜持を背中から発散し、チームを牽引してきた池田だったが、現役から退いたいま、別の方法で選手を鼓舞していかねばならない。

新しい挑戦に違いなかった。

○己を知る

初めてラフトに乗ってから17年、自然をわがものにしたと思えた一瞬を池田は忘れない。

中学、高校はバスケットボール部で活躍し、スポーツトレーナーを育成する専門学校へ進むため、故郷の長野県から上京した。卒業する年の夏に受けた企業研修が転機となった。

向かったのは利根川上流の群馬県みなかみ町、客を乗せて激流を下るラフティングガイドの仕事だった。

自然に囲まれて育った池田にとって「まるで遊びのような仕事」と夢中になった。3週間の研修期間が過ぎても居座り続けた。夏休みの2カ月を丸々費やしてトレーニングを受け、正式なガイドとして客を乗せるまでになった。

卒業と同時にみなかみ町へ移り住み、ラフティングツアー会社で働き始めた。

川底から絶え間なく湧き立つ波涛は4メートルほどのラフトをのみ込むことさえある。

「カヤックのような小さな舟と違って、思い通りには動かせない」

腕を磨き、流れを読む目を養い、仲間と息を合わせて困難な瀬を乗り切る。そうして訪れる、わずかだが自然をものにすることができる瞬間-。圧倒的な自然の力と向き合う時、人は自らの小ささを知る。

「自然への敬意を忘れてはならないと、あらためて胸に刻むことができる」

そして21歳の時、池田はニュージーランドへ飛ぶ。

「腕を磨き、この世界で一番になりたい」

国内の商業ラフティングは5月の連休から冷え込み厳しくなる初冬までが営業期間だ。季節が逆転している南半球へ向かったのはシーズンオフを埋めるためだった。

アウトドアスポーツの本場、かの国では一つの川で毎日10艇以上がツアーに出るほど活気に満ちていた。ガイドの給料は1回下るといくらという仕組みで、4カ月半で100本ほどをこなして収入面でも充実した。翌年はオーストラリアで働き、プロのラフティングガイドとして生活を立てていった。

そんな時だった。都内の大手警備会社テイケイがレースラフティングのプロチームをつくるため、メンバーを募集しているという。

「腕試し。自分の位置を確かめたかった。レースで順位がつけば、ラフティングが世界一うまいと文句なしに言える」

選考会を通過し、2004年、テイケイに就職した。25歳になっていた。

○漕ぎ進む

レースラフティングといっても日本ではなじみが薄い。自分たちがフロントランナーなのだ。教えてくれる人などいなかった。「いま思えば、水に触っていただけのような練習でしかなかった」。同じくパドルを使うレースカヌーや五輪種目でもあるカヌースラロームのコーチに教えを請うたこともあった。

池田は2年目からキャプテンとしてチームを率いるようになる。

技術、経験の両面で本場の欧州に大きく後れを取る。チームが注力したのは事前の分析だった。コースを下見し、撮影したビデオ映像を何度も見返す。最も流れの速い瀬を見つけ、ライン取りをあらかじめ決めておく。他国にはないレース前の緻密な準備だった。

世界的な大会で上位入賞するようになり、10年、ついに世界選手権制覇という快挙を果たす。11年には連覇を達成した。

監督と兼務するようになってからはコーチングを専門書に学び、姓名判断の本まで手に取った。「一人一人に合った指導法を知るため。選手全員の誕生日も覚えた」

それでも王座返り咲きには届かなかった。

「この大会を最後に3人の選手が辞めた。負けて、辞める。結局、心が優しいんだ。監督として、そういう選手の精神状態しかつくれなかったということなのだろう」

ではどうすれば、の答えは容易に見えない。

池田はしかし、立ち止まらない。

「ラフティングには生きていく上で必要なものがすべて詰め込まれている」

心身を鍛え、仲間と協力して高みを目指し、自然への敬意を忘れない。専任監督として挑む来年の世界選手権インドネシア大会、それは池田の生きざまを賭した闘いとなる。

危機が眼前に迫った時こそ前へ漕ぎいでる-。

岸辺に屹立した武骨な背中が、終わりは始まりなのだと、語っていた。=敬称略

〈おわり〉

【神奈川新聞】

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