【記者の視点】釜石の悲劇を考える、間違った避難なぜ=報道部・佐藤将人|カナロコ|神奈川新聞ニュース

【記者の視点】釜石の悲劇を考える、間違った避難なぜ=報道部・佐藤将人

防災センターに避難した夫と2人の子どもを失った女性。2歳の長女の行方が分からず警察による捜索をぼうぜんと見つめていた=2011年4月8日、岩手県釜石市鵜住居町

東日本大震災の発生直後に200人以上の住民が避難し、津波にのまれた建物がある。岩手県釜石市の鵜住居(うのすまい)地区防災センター。海に近く、津波の避難場所ではなかった施設になぜ人々は向かったのか-。この夏、調査委員会がまとめた中間報告書には、記者が2年半前の現地取材で感じた疑問の答えが記されていた。「取り繕い」「なれ合い」といった悲劇へ至る過程は、ここ神奈川でも、何げない日常として今この瞬間も重ねられているかもしれない、と感じられてならない。

1通のメールがセンター職員から送信された。

〈今回は2階を使って避難者を受け容(い)れたがこれで良いか?…〉

チリ地震による津波警報が出された2010年2月29日、住民34人が避難のために集まっていた。

防災センターは鉄筋コンクリート2階建て、海岸線から1・2キロ、標高4・3メートルに立つ。明治三陸地震津波の浸水区域のため、津波が予想される際に逃げ込むべき1次避難場所には指定されていない。

あくまで水が引いた後に被災者が身を寄せ、避難生活を送るための施設だったが、住民が津波の避難場所と勘違いしていることは明らかだった。

市役所本庁からメールの返事はなかった。

1年後。懸念は現実になった。3月11日、避難してきた住民は推計で244人。約30分後に押し寄せた津波は2階天井付近に達し、生存者は34人だけだった。

■後付けの防災

警告はなぜ、放置されたのか。

成り立ちからの経緯をたどると、後戻りできなくなっていった状況が浮かび上がってくる。

センター建設は、老朽化した市の出張所や公民館を1カ所にまとめて建て替えて、消防出張所を併設する計画で始まった。

地域の災害対策拠点としての位置付けがなされたのは着工の1年半前。厳しい財政状況が理由だった。

建設の財源は市債の発行に頼らざるを得ない。防災施設建設の名目なら市債の割合を高められ、財政負担も軽くなる。国の補助金も期待された。防災の役割は後付けだった。

結局、国の補助は受けられず、予算上の制約もあり、3階建て以上とすることや屋上への避難階段の設置は検討されなかった。

名称は、起債の名目に整合させるため「防災センター」に決まった。名称に沿うように10年2月の開所後は避難訓練の会場としても使われることになる。

■望まれた訓練

中間報告書に記された生存者の証言にやりきれなさがにじむ。

「直前の避難訓練で避難場所になっていたので避難した」

本来の避難場所ではない防災センターで行われてきた訓練。それはしかし、住民自身が望んだものでもあった。会場に使いたいと市に持ち掛けたのは町内会長だった。理由は「寒さについて苦情が出ることから」。

市も「訓練のための避難場所」として了承。町内会役員は「訓練のための訓練であった」と振り返った。

報告書は背景について次のように指摘する。

「市にて例年行われる避難訓練について、住民の参加率は高いものではなかった。住民に避難行動を起こさせるためにも、避難訓練に参加させることが求められ、いつしか避難訓練の参加率を上げること自体が求められるようになっていた」

一方で、鵜住居地区は住民主体の防災訓練に熱心であった点も見逃せない。報告書には、町内会の提案は高齢者や体の不自由な人への配慮があったと触れられている。

3月3日の避難訓練には早朝にもかかわらず101人が参加。500メートル離れた高台の会場の参加者を上回るまでになっていた。

そして8日後-。

報告書をまとめた調査委員会のメンバーでもある釜石市の山崎義勝・危機管理監は言った。「今回の悲劇に至る過程は防災に限らず、どの組織でも起こりうることだと思う。全国の自治体には、そういう教訓としても覚えていてほしい」

◇奇跡との分かれ目

どこにでもある。「いつかはね」「今のところはさ」。家庭でも、学校でも、職場でも…。たいていは大過なく済む。だからまた、「まあいいや」が続いていく。

2011年3月11日。釜石市鵜住居町には奇跡と悲劇が隣り合った。海沿いの小中学校は周到な防災教育が実を結び、一人の犠牲者も出さず「釜石の奇跡」と称賛された。

学校から徒歩で10分。鵜住居地区防災センターで起きた「悲劇」は、すぐそばで起きた奇跡に光が当たるからこそ濃い影を落とした。200人以上と推計される犠牲は、長年にわたる「まあいいや」の積み重ねが招いた結果といえた。

防災名目なら予算がつく。名称も防災センターにしよう。高台の避難場所に行くのは難儀だし、寒いと訓練の参加率が下がるから、暖かくて近いここでやりたいな。市民の要望ならば、仕方ないですね-。

なれ合いの末、大切なものがすっぽり抜け落ちる。どんな組織でも身につまされるところがあるはずだ。

遺族連絡会会長として市の責任を追及してきた三浦芳男さん(67)は言う。「調査を進めるほどに、はっきり誰々の責任と言うのが難しい問題だと分かった」。なれ合いは責任の所在をあいまいにし、遺族の憤りの矛先すら中ぶらりんにしてしまう。

横浜市中区役所では、この悲劇を教訓にしようと取り組みが始まっている。全職員対象の防災研修で防災センターを特集した報道番組を教材とし、「甘さ」の排除を説く。海沿いの自治会には「訓練のための訓練は悲劇を招く」と警鐘を鳴らす。

久代雅之副区長は「以前なら、『9月の訓練は暑いから日陰で』という自治会に、ノーと言えたかどうか。鵜住居のケースを見て、参加率ありきの訓練を続ければ、横浜でも同じことが起きかねないと強く思った」と語る。

海岸線を抱えるほかの自治体でも訓練の見直しや避難ビルの指定、津波浸水予想の看板設置など新たな対策が進む。一方で避難ビルがオートロックのため、いざというときに逃げ込めるか分からないといった課題を抱えたままだ。

震災から2年半が経過した。危機感に駆り立てられて走りだした防災施策も、運用には大小さまざまな難関が立ちはだかる。だが、「仕方ない」「いつかは」と妥協を重ねていけば、当初の理念は必ず埋没する。そこで踏ん張れるかどうかが、いつかの奇跡と悲劇の分かれ目となる。

【神奈川新聞】

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