【横浜大空襲73年】平和つなぐ(8)爆撃の衝撃 伝える穴|カナロコ|神奈川新聞ニュース

【横浜大空襲73年】平和つなぐ(8)爆撃の衝撃 伝える穴

爆撃の跡を示しながら当時を振り返る蓮上院住職の濱武快晃さん=小田原市浜町

 鎌倉期に創建された古刹(こさつ)に、空襲があったことを今に伝える痕跡がある。

 小田原城を守るため、北条氏が土を積み上げて築いた土塁が敷地内に残る蓮上院(小田原市浜町)。その土塁をえぐるように、直径約20メートル、深さ約5メートルの半円形の穴がぽっかりと開く。

 「ここに落ち、土ぼこりが上がったんです」。蓮上院住職の濱武快晃(はまたけかいこう)さん(78)が述懐する。草が青々と茂り、時間の流れを感じさせる一方で、73年近くたった現在も爆撃の跡は衝撃のほどを雄弁に語る。

 敗戦2日前の1945年8月13日は、土塁だけでなく、濱武さんにも消えない傷痕が刻まれた日だ。

 当時5歳。その日は朝からかんかん照りで、米軍機が襲来する直前の午前8時ごろには既に30度近かった。

 父は戦争に駆り出され、寺の敷地内にあった自宅には不在。母や祖母、弟らと家の中で過ごしていると、敵機が近づいてきたことを知らせる10秒ほどの「警戒警報」が響いた。

 「やってくる。隠れなければ」。弟と叔母と3人で6畳ほどの広さの土蔵へ走った。布団の中で身構えると、機関銃の攻撃を受けた周囲の屋根がわななき、続けて爆発音とともに下から突き上げる地響きがした。

 物が壊れていくような、ごう音で震えた鼓膜が落ち着くと、気持ち悪くなるほどの静寂が訪れた。その時だ。付近の住宅からだった。「助けて」との男性の声が確かに聞こえた。

 外に出て様子を見ると、10メートルほど先で、ものすごい勢いで土ぼこりが舞っているのが目に入った。植わっていたケヤキやシイの木は吹き飛ばされ、巨大な爆弾が落ちていた。

 「爆弾を落とすのが、数十分の一秒でも違っていたら土蔵に直撃し、生きていなかったかもしれない」。73年前の出来事はまるで、きのうのことのようだ。「男性の声は耳に残り、今も上空の米軍機に狙われる悪夢にうなされる」と、濱武さんは静かに話す。

 市文化部などによると、8月13日の空襲は小型機によるものとみられ、市中心部が狙われた。蓮上院に隣接する国民学校(現在の小学校)も被害に遭い、女性教諭1人と用務員の男性2人が亡くなった。軍需工場なども爆撃されて死傷者が出たという。

 小田原は断続的な空襲に遭い、玉音放送がある8月15日未明にもB29爆撃機が飛来。最後の空襲で12人が命を落としたとされる。

 「早く埋めて元に戻したい」。心の傷とともに爆撃の跡を封じたかったのか、濱武さんはずっとこう思っていたという。

 しかしながら、北条氏が1590年ごろに外敵に備え、城や城下町を囲むように築いた土塁は1959年に国指定史跡に指定され、手を加えることが規制された。

 市へ相談に出向くと「記録として残しては」と提案され、受け入れた。その後は、語り部として呼ばれれば小学校で自身の体験を明かし、法事などでも語ってきた。

 しばしば「そんなことがあったのか」と驚かれる。戦争の恐ろしさを伝え続けることの大切さを感じ、今は残して良かったと思う。

 なお争いは世界で絶えない。「上空から爆弾を落とす側は、深く考えないかもしれない。でも落とされた側にはこんなに被害が出るのだと、下は地獄絵図になるのだと知ってもらいたい」。日本の若者に言いたいことはと問われると「命を大切にしてほしい」ときっぱり言った。

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