【横浜大空襲73年】平和つなぐ(6)敵機見張る監視哨 相模原|カナロコ|神奈川新聞ニュース

【横浜大空襲73年】平和つなぐ(6)敵機見張る監視哨 相模原

自ら掘った防空壕(ごう)の前に立つ田口一郎さん。木の柵の奥に穴が開いている =相模原市中央区上溝

 太平洋戦争中、米軍機の空襲を監視するため相模原市上溝地区に置かれた「上溝監視哨(しょう)」。田口一郎さん(84)=同市中央区上溝=は、少年時代に連れられて見学した日のことを鮮明に覚えている。

 「当時の町役場の屋上に丸太を組んで建てられていた。はしごを登ると見晴らしの良い小部屋があった」

 そこで働いていたのは当時小学生だった田口さんより年上の地域の人ばかり。顔見知りの中学生の姿もあった。「毎日空を見上げ、いつ通るか分からない米軍機を監視するのは大変だったはず」と振り返る。

 市に残る記録によると、上溝監視哨では36人が交代で部屋に詰めた。昼夜を問わず24時間体制で監視し、帝都防衛の要とされた。

 洋上から富士山を目指して飛んで来た米軍機は、富士山の手前で東に方向転換。相模原・県央地域の上空を通って東京都内への爆撃に向かったとされる。敵機を発見すると、進行方向や機種、機数、高度などを厚木の監視所へ電話で連絡。夜間や機体が雲の中に隠れているときは、エンジンの音で高度を判断していた。

 市内には山間部の緑区青根地区にも「青根監視哨」が置かれ、同様に敵機の監視に当たった。田口さんは「勝利を信じ、地域を挙げて戦争に協力していた」と話す。

 市内には大規模な空襲はなかったが、田口さんにとって戦争は暮らしの一部だった。戦争末期、田園風景が広がっていた自宅周辺でも、空襲警報が毎日のように鳴り響いた。「畑仕事をしていると、ブーンという音が聞こえ、見上げると米軍機が機銃掃射をしていた。本当に怖かった」

 近くの家の畑からは焼夷(しょうい)弾が見つかり、頭上を爆撃機の編隊が飛び、夜になって遠くの空が真っ赤に見えた日もあった。

 「東京方面の空襲だったのだろう。当時、どこが空襲されたのか、どれだけ多くの人が亡くなったのか、知らなかった」

 穏やかな暮らしはままならなかった。田口さんの自宅は兵隊の詰め所となり、広い部屋を兵士が使い、家族は家の隅で暮らした。相模湾に上陸すると考えられていた米軍との本土決戦に備えるためだった。

 米軍機の監視所が設けられ、空襲におびえながら防空壕(ごう)を掘り、兵士とともに暮らした日々の記憶は薄れつつある。町役場は取り壊され、上溝監視哨の存在を知る人はほとんどいなくなった。

 「空襲がなかった地域にも戦争は深い爪痕を残したことを多くの人に知ってほしい。戦争はもう二度と起こしてはいけない」

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