【横浜大空襲73年】平和つなぐ(7)厚木航空隊の「反乱」|カナロコ|神奈川新聞ニュース

【横浜大空襲73年】平和つなぐ(7)厚木航空隊の「反乱」

慰霊祭で玉串を奉納した高桑保さん(右)=今年4月1日、大和市の深見神社

 太平洋戦争中、首都東京の空を守る拠点だった旧日本海軍厚木基地(大和、綾瀬市)-。米軍爆撃機B29を迎撃した厚木航空隊は終戦直後、徹底抗戦を唱え、反乱軍となった歴史を持つ。今年4月1日に開かれた慰霊祭は戦後72年が経過し、元隊員の参列者は3人となった。若くして亡くなった戦友をしのび、平和の重さをかみしめる。

 葉桜となった深見神社(大和市)での慰霊祭。少年兵だった高桑保さん(90)=東京都=は元隊員を代表し、玉串を奉納した。15歳11カ月で海軍に志願。横須賀で訓練を受け、1944年8月、厚木の航空写真班に配属された。同隊はB29迎撃のため、「雷電」「月光」といった戦闘機をそろえ、撃墜王も擁する空の砦(とりで)だった。諸説はあるが4千人近くが所属していた。

 本来の任務は偵察機で敵地に乗り込み、上空から写真を撮ることだった。ところが、負け戦で偵察は少なく、実戦経験はない。実際の主な任務は事故機の撮影だった。物資も熟練工も足りず、「カラスが鳴かぬ日があっても、飛行機が落ちない日はない」とやゆされた。高桑さんの写真は再発防止に向けた資料となった。

 大規模な爆撃こそなかったものの、厚木も戦場だった。機銃掃射など戦闘機から直接攻撃を受けた。B29迎撃に向かったパイロットは逆に撃墜された。

 高桑さん自身も悲惨な現場に立ち会った。戦死した兵士の遺影がなく、安置所で先輩が遺体の目を開けて、撮影した。味方の戦闘機の機関銃が暴発し、兵士が命を落とした。「葬儀では、遺影と、それを抱く兵士の顔が同じだった。不思議に思ったが、後で双子だったと知らされた」。目に涙が浮かぶ。

 8月15日、厚木でも玉音放送が流れ、ようやく終戦を迎えた、はずだった。しかし、司令の小園安名(やすな)大佐は「必勝は疑いなし」とげきを飛ばし、隊員の多くも呼応。部隊は反乱軍となり、戦争は続いた。これが「厚木航空隊事件」だ。

 「最後まで戦う者はこちらに。家に帰る者は左に」との声に、家族を持つ中年兵士が復員を選ぶ中、高桑さんは「空襲で街を焼かれ、このままでは終われない」と徹底抗戦を選んだ。戦闘機が各地を飛び、「戦争継続」を訴えるビラをまいた。対空機関銃は鎮圧に来る味方の陸上部隊を狙うため、空に向けていた銃身を低く下げた。

 結局、小園大佐がマラリアで倒れるなどし、8月21日、反乱は終わった。しかし、納得できないパイロットは戦闘機で、埼玉の陸軍基地へ飛び立った。高桑さんも仲間と拳銃や手りゅう弾を持ち富士山に向かって歩いた。5日ほどで食料が尽き、麓から東京の自宅に帰ることにした。

 事件も含め、戦争中の部隊の戦死者は約100人を数えたという。高桑さんは「10代後半や20代前半で多くの若者が戦死した。今の平和な時代を一目、見せてやりたかった」と語る。

 慰霊祭は毎年4月の第1日曜日に開催。戦時中、基地内には戦死者を祭る厚木空神社があった。終戦直後、米軍に破壊されることを恐れ、深見神社に神刀と社が移された。4年前に戦友会が高齢化で解散して以降も、高桑さんら有志や神社の氏子、地元消防団員らの手で慰霊祭が続けられている。

 高桑さんは戦友が年々減り続ける現状に胸を痛める。「手紙を出しても、返事は返ってこないことが多くなった。厚木で起きた事実を後世に伝えてほしい」

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